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オープニング映像。
旅のスタートは大阪・堺。徳川家康が逃げた神君伊賀越えを辿る旅。家康の伊賀越えにまつわる伝説は各地に残されておりルートには諸説ある。最近、歴史作家の上島秀友さんが古文書を掘り起こし、新しい説を発表。今回はこの大和越えルートを旅する。1日目は竹内峠を越え奈良・今井町を目指す。2日目は最大の難所・芋峠を越えて室生寺へ。3日目は伊賀へ入り、家康の側近だった武将の子孫を訪ねる。ゴールは伊勢湾を一望する展望台。旅のおきては、できる限り旧街道を走ること。昔ながらの細い路地や悪路に備えて相棒はグラベルロードをチョイスした。
堺の街を走る茂山は堺打刃物の施設を訪ねた。刃物職人の平川さんは戦国時代からこの地で暮らす一族の21代目。元々は火縄銃の引き金などを作っており、明治になるとはさみや包丁などを作るようになった平川家。鍛えられた鉄の技がこめられた刃物は世界中から注文が入るという。
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堺と奈良を結ぶ竹内街道は7世紀に遣隋使のために整備された日本最古の官道。茂山は奈良との県境にそびえる竹内峠に突入。距離は短いが勾配は6%の峠を越えると、この日の目的地・今井町に到着した。街に入ると、そこは江戸時代からの街並みが広がっていた。今井町は江戸時代には自治都市として反映した商人の街で、その子孫が今も暮らし続けている。
茂山はこの場所の凄さが分かるという古美術店を訪ねた。店の奥には琳派の屏風などが並んでいた。莫大な富が集まった今井町には、全国の大名から買い取った美術品が受け継がれている。さらに奥には洛中洛外図屏風が。歴史の荒波を乗り越えここに集まってきた美術品の数々、かつての繁栄ぶりを目の当たりにした。
1日目の宿は築250年以上という町家を改装した民宿。今井町は莫大な富への用心のため親戚以外の宿泊は禁じられており、この宿は今井町で初めてつくられた宿だという。掟を変えた杉村さんは、「周りの反対はそんなになかった。町以外の人に今井町の良さを知ってもらいたかった」と話した。
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2日目は芋峠を越えて吉野を周り、室生寺方面を目指す。芋峠は今回の旅の最大の難所。距離8km、最大勾配は12%超の厳しい峠。“いも”とは天然痘のことで、峠で病気をせき止め都に入れないようにという願いが込められている。峠の途中で茂山は家康も通ったであろう古道を発見。自転車をかついで古道を進んだ。
堺を出て70km、芋峠を越え吉野に入った。吉野は杉の産地として古くから知られる。植林が始まったのは16世紀で、秀吉の大坂城にも使われたという。家康が通った際もこの風景は広がっていた。茂山は清流沿いで吉野名物の柿の葉寿司を食べて休憩。堺から130km、突然山奥に現れたのは水源地・宝生寺を中心に発展した室生の里。宝生寺金堂には国宝の釈迦如来立像などがある。
最終日は逃げる家康を助けた武将の子孫を訪ねる。茂山は初瀬街道を自転車で走り伊賀市へ。山中で見つけたのは家康と縁が深いという百地砦跡。家康は伊賀の忍を味方につけ、伊賀越えの際にも忍たちの助けによってピンチを切り抜けたと伝わっている。
伊賀忍者の末裔がいると聞き訪れたのは旧東海道の宿場町・関宿。和菓子職人の服部吉右衛門亜樹さんは徳川家の家臣・服部半蔵正成の末裔。和菓子屋は忍びの隠れみのとして創業。江戸時代になり、町人へと姿を変えた服部家は交通の要である関宿で情報を集め、幕府へ報告することを生業としていたという。創業以来変わらない製法で作られている和菓子はシンプルなお茶請け。保存食の知識にも長けていた伊賀忍者の技が代々伝えられている。家には家康の伊賀越えに関する古文書が残されている。 家康の伊賀越ルートの謎には、何人かの影武者が伊賀越えをしたという口伝が残されているという。
視聴者の愛車写真を紹介。平城宮跡での1枚を紹介した。
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