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日本画家・田中一村が過ごした奄美大島で、ピーター・バラカンが一村が見た島の自然や暮らしに触れる。
オープニング映像。
日本画家・田中一村の作品に魅了されたピーター・バラカンは、彼が住んでいた奄美大島を訪れた。田中一村記念美術館で一村の作品を鑑賞した。集大成と言われる作品「不喰芋と蘇鐵」は、自身が閻魔大王への手土産と言ったと伝わっている。学芸専門員の上原さんはこの作品の中に死生観を込めたと話した。
一村は幼少の頃から画才を発揮。7歳の時に描いた「菊図」は欠落した部分があり、芸術家の父が手を加えたことに腹を立てた一村が破いたと言われている。1926年に東京美術学校に入学するが、2か月で退学。商売として描くことに疑問を感じ始めた一村は、23歳の時に心から描きたいと思うものを描きあげスポンサーが離れた。千葉の農村に移り住み、農業やアルバイトで生計を立てながら絵を描き続けた。39歳の時に画壇デビューを果たしが、翌年に自信作の「秋晴」が落選したことに腹を立てた一村は手紙で抗議し画壇と距離を置くようになる。新たなモチーフを探して訪れた九州で、南国の光や色彩に魅了された一村は画風を変化させていった。
一村は南を目指し、50歳で単身奄美への移住を決意する。初めて目にする動植物に心を動かされた一村は、一つ一つカメラに収めていった。バラカンはツアーガイドの喜島さんに奄美の森を案内してもらった。亜熱帯の鳥は一村のお気に入りで、作品にも度々登場する。
有屋地区で小さな家を借りて暮らしていた一村は、人との交流を極力避け生活費を切り詰めながら絵に没頭した。お金がなくなると染色工として紬工場で働き、蓄えができると仕事と辞めて再び絵に没頭する生活だった。無名だった一村が亡くなったあと、知り合いや周りの人たちよって開かれた遺作展がきっかけとなり一村の名は全国に広がった。
一村が働いていた工場では、奄美の特産品である大島紬が作られていた。艷やかな光沢のある黒い糸が魅力で、タンニンを利用して昔ながらの方法で染めていく。褐色に色づいたあと泥染めを施し、糸が黒に染まる。バラカンは、母が一村の同僚だったという宜夫さんの自宅へ連れて行ってもらった。自宅には宜夫さんの母が一村に描いてもらったという祖父母と弟の肖像画が飾ってあった。宜夫さんは、母は援助したいという思い出描いてもらったと思うと話した。
他国からの支配が繰り返されてきた奄美は、1953年にようやく自由を手に入れた。奄美にはソテツが群生している山があり、人々は毒を抜いたソテツを食糧にして薩摩藩支配時代を生き抜いた。奄美大島では戦時中も多くの人がソテツを食べていた。またアダンは霊が食べる食べ物とされ、奄美の子どもたちは食べる前に霊が寄ってこないように5、6粒海に投げるよう教えられるという。民俗研究家の和田さんは、一村は奄美のイメージを象徴する存在としてソテツやアダンをモチーフに選んだと考えている。
奄美出身の写真家・濱田さんにあの世とつながると言われている場所に案内してもらった。発掘調査で6000年前に人が暮らしていたことがわかった場所で、ここでは遺体を埋葬せずに外気にあてて自然に還す風葬が行われていた。奄美大島では死者を弔う独特な習俗があった。濱田さんは「不喰芋と蘇鐵」を初めてみた時、心の中を見透かされたように感じたという。描かれる立神は海の彼方からやってくる神様を迎える奄美大島の岩で、信仰の対象になっている。濱田さんは最初と比べて一村は奄美の内面の世界を描くようになったと話した。
エンディング映像。
「田中一村展 奄美の光 魂の絵画」の告知。
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