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様々な地図を使い、世の中の謎に迫っていく。今回のテーマは「山手線の謎」。
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オープニング映像。
鉄道に通暁する奥原哲志氏に林氏は「東海道新幹線の三河安城駅では一部に屋根がなく、雨天の時に悩まされる。なぜ、屋根がない?」と訊ねた。おそらく、予算の関係だという。明治5年、新橋~横浜間が開通したことで、日本の鉄道の歴史は幕を開けた。11年後、上野と北関東をつなぐ路線などが作られた。だが、新橋~上野間には建物が密集し、線路の敷設などできなかったという。そこで、明治18年、品川から赤羽までが結ばれ、品川線と呼ばれた。群馬、埼玉でつくられた生糸は大宮~赤羽~品川~横浜へ運ばれ、海外へ輸出されることとなった。林氏は「南北をつなぐために作られたので、山手線が縦長になったのは必然」と語った。
品川線と呼ばれた路線は山手というエリアを走行していた。山手線も地名から名前がついた路線だという。奥原哲志氏は「山手線で新宿駅は標高が高いところに位置し、品川は海とそれほど変わらない高さ。ものすごい山岳路線」と語った。ただ、新宿~品川まで10km以上あり、山を掘削したり、架橋によって標高差を減らしている。
山手線の路線図を俯瞰視すると、米粒を思わせる。カギを握るのは田端駅、目白駅、池袋駅だという。明治時代、福島や茨城で採掘された石炭は常磐線を通じて首都圏に運ばれ、田端駅と結ばれた。その後、田端から目白駅ではなく、池袋に線路が敷かれることになる。目白駅には新たな線路をつなげるほど、土地の余裕がなかったという。林氏曰く、池袋は滑り止めみたいな感じで作られた駅だが、今では様々な路線があり、巨大なターミナルとなっている。
明治18年、山手線の西側の区間がつくられ、18年後には田端~池袋が結ばれた。大正に入ると新橋~神田が開通。14年には上野~神田が繋がり、晴れて環状線となった。その2年前、関東大震災が発生し、当時の東京市の約44%が焼失した。復興事業に際して鉄道用地を確保したといい、それがなければ環状線の実現は数十年遅れていたかもしれないという。
関東大震災で東京市の東側は甚大な被害を受けたが、西側の被害は比較的マシだったという。西側へ移転する住民もいて、世田谷区は震災からわずか5年で人口が2倍以上となった。また、多くの鉄道ができ、山手線に接続していった。沿線の町は急速に発展。奥原哲志氏は「昭和の初め頃、山手線などは朝4時台から終電は深夜1時近くあった。通勤時間の運転感覚もだいたい2分半くらい。今とほとんど変わらない」と語った。
エンディング映像。