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「グシンスキー」 のテレビ露出情報

20世紀初頭、皇帝・ニコライ2世が率いるロシア帝国は大英帝国に次ぐ広大な領土を有する帝国として世界に君臨していた。しかし、その内実は一握りの富裕層が国の富を牛耳り、国民の8割を占める農民たちは貧困に喘ぐ極端な格差社会だった。1914年に勃発した第一次世界大戦でロシア帝国はドイツ帝国と戦火を交えるが、近代化の遅れた軍はことごとく敗北を重ねる。開戦から3年後の1917年にはモスクワでパンを求める女性たちが抗議デモを行うに至り、そこに労働者と兵士が合流したことで革命に発展。この二月革命によって皇帝・ニコライ2世は退位に追い込まれ、300年続くロマノフ王朝は終焉を迎えた。皇帝に代わって統治を引き継いだのは西欧型の自由主義を目指すエリートたちで、彼らが組織した臨時政府は集会と言論の自由を解禁。ロマノフ朝の抑圧から開放された市民たちは、初めて手にした自由の味に歓喜の声を上げた。
その翌月、革命の歓喜に湧くロシアに一人の男が降り立った。後のソ連共産党となるボリシェヴィキの指導者、ウラジーミル・レーニンである。臨時政府の方針を否定し、社会主義体制への転換を訴えるレーニンは皇帝の退位から8ヶ月後に武装蜂起し、臨時政府を襲撃して政権を奪取した。しかし、この新政権を認めない一部の軍人たちは「白軍」を組織し、ボリシェヴィキに反旗を翻す。ボリシェヴィキの側についた「赤軍」と白軍はロシアの政権を巡り、凄惨な内戦を展開することとなった。捕虜の処刑やテロ攻撃が双方で横行する中、レーニンは秘密警察「チェカー」を創設し白軍勢力の壊滅を命じる。白軍の支持者を徹底的に弾圧するチェカーのテロ攻撃は猛威を振るい、その矛先は退位していた皇帝一家にも向けられる。皇帝が白軍の手によって反革命の象徴とされることを恐れたレーニンはチェカーに一家の処刑を命じ、ロマノフ家は銃弾によって永遠に断絶することとなった。
革命を率いたレーニンが1924年1月に死去すると、ボリシェヴィキの内部では熾烈な後継者争いが始まった。党書記長の立場にあったスターリンはレーニンの後継者と目されていたトロツキーを打倒するため、自身の立場を利用して新聞や機関誌でトロツキーへの誹謗中傷を展開。この戦略は成功し、トロツキーは全ての役職を解任されて国外追放処分を受ける。狙い通りに権力を手中に収めたスターリンは続けて自らの指導力をアピールしようと考え、工業国への転換を掲げた「第一次五カ年計画」を打ち出した。計画に必要な労働力を確保するため、スターリンは各地に強制収容所を開設し「反社会的分子」と見做された者たちに強制労働を強いる。この強制労働には女性や老人の囚人も駆り出され、数百万人が犠牲となった。
1934年、スターリンが信頼を寄せていた部下のキーロフが暗殺されたことによって、ロシアにはさらなる暴力の嵐が吹き荒れる。スターリンはこの暗殺事件を党内の政敵を粛清する口実として利用し、2年間で一般市民を含めた70万人が処刑された。猜疑心を深めていくスターリンは国民同士を監視させ、密告を奨励するシステムを構築する。子どもたちによって組織された共産党少年団「ピオネール」は農民が食料を隠し持っていないか監視する役割を担わされ、彼らの密告により200万人の農民がシベリア送りとなった。粛清の波は国外にまで及び、メキシコに逃れていたトロツキーはソ連から送り込まれたスパイによりピッケルで頭を砕かれ暗殺された。しかし、1941年に勃発した独ソ戦でスターリンは大粛清の代償を支払わされることになる。経験豊富な軍人を処刑したことが原因でソ連軍はドイツ軍に大きな苦戦を強いられることになり、勝利には2700万の人命と4年の歳月を費やすことになった。こうして数々の弾圧を展開したスターリンは1953年に脳卒中により帰らぬ人となるが、その統治期間にロシアでは粛清により2000万人が犠牲となったとされている。
スターリンの死から30年後、改革を掲げるゴルバチョフの登場によりロシアは新たな局面を迎えた。ゴルバチョフが進めた情報公開の一貫としてスターリンの苛烈な弾圧が白日の元に晒されたことで、市民の共産党に対する信用は失墜。これが遠因となり1991年にソ連は崩壊し、代わってエリツィンが率いる新生ロシア連邦が成立した。エリツィン政権下でロシアは民主主義路線へと転換し、報道の自由化や資本主義の拡大が進められた。しかし、急速な資本主義の導入は経済の混乱と貧富の差の拡大という副作用を生み出してしまう。資本主義に失望した市民たちが再び共産党支持を唱える中、追い詰められたエリツィンはソ連崩壊後に台頭した新興財閥「オリガルヒ」と手を結ぶ。オリガルヒから莫大な資金援助を受けたエリツィン政権下では政治の腐敗が急速に進んでいった。
政治の腐敗が深刻化していた1998年、諜報機関・FSBの情報将校であったリトビネンコは「FSBがオリガルヒの暗殺を企てている」という告発を行った。しかし、この告発は当時のFSB長官であったプーチンによって否定され、リトビネンコは謂れのない罪で起訴される。裁判の結果リトビネンコは無罪となったが、その直後にリトビネンコは新たな容疑で再逮捕される。一時釈放の隙をついてイギリスに亡命したリトビネンコはその後、国外から反プーチン活動を展開していくことになる。
支持率の低下したエリツィンは2000年に辞任し、ウラジーミル・プーチンを後継者として指名。大統領選挙でプーチンは大差を着けて当選したが、就任から4日後に異変が起こった。武装した警察が政権に批判的なメディアを強制捜査したのである。この異常事態を受けてエリツィン政権を支えてきたオリガルヒも政府批判に回ったが、プーチンは彼らを次々と逮捕し、彼らの後釜に政権と繋がりのある人物を据えていった。こうした弾圧が繰り広げられた一方で、プーチン政権下のロシアでは年間経済成長率は平均6.6%にまで急増。富を独占するオリガルヒを打倒し、ロシア経済を成長させるプーチンを国民は賛美の声で出迎えた。
2002年、モスクワのドブロフカ劇場でロシアからの独立を唱えるチェチェン人の過激派が900人の人質を取って立てこもるという事件が起こる。プーチンはテロリストとの交渉を待たずに特殊部隊を送り込んで制圧。国民はこうしたプーチンの強硬策を称賛し、事件の翌月には支持率が過去最高の83%に達する。しかし、この劇場占拠事件には政府が関与しているという疑惑が存在していた。独立系新聞紙「ノーヴァヤ・ガゼータ」の記者であるアンナ・ポリトコフスカヤはこの疑惑について調査を進めていたが、その結果を公表することなく自宅で射殺される。イギリスで反プーチン活動を展開していた元FSBのリトビネンコはアンナの死はプーチンによる暗殺だと唱えたが、その翌月にリトビネンコ自身も突然の体調不良により死亡する。このリトビネンコの不審死について、調査を行ったイギリス政府はプーチンの指示によって行われた暗殺であるとの結論を下している。
2011年、ロシア国内に堂々とプーチン政権の打倒を掲げる人物が登場する。政権の汚職をSNSで公表していた政治活動家のアレクセイ・ナワリヌイである。3期目の大統領就任を目指すプーチンに対してナワリヌイは市民に抗議するよう呼びかけ、3万人が集結。ナワリヌイはプーチン退陣を掲げて野党を結党し、瞬く間に反体制派の旗手となる。しかし、彼もまた2020年に謎の体調不良に見舞われた。ドイツの病院に運ばれて一命を取り留めたナワリヌイは暗殺未遂犯と見込まれる人物に身分を偽って接触し、自身の体調不良がFSBの関係者による暗殺作戦であったとする証拠を公表。しかし、プーチンはこの証拠を認めようとはしなかった。ナワリヌイはさらにプーチンを追い込むべく帰国を決断するが、入国直後に逮捕され北極圏の刑務所に収監される。そのまま、彼が監獄から出ることはなかった。2024年の2月16日、ナワリヌイは獄中で突然倒れ、帰らぬ人となったのである。
ウクライナ侵攻から1週間後、ロシア政府は500万人の子どもたちに1本の動画を視聴させた。その内容はウクライナでの軍事作戦の正当性を強調するもので、この動画の配信後にはロシア国内で侵攻を支持する子どもたちが急増する。その一方で、抵抗を続けていた独立系メディアは封鎖に追い込まれた。2024年の大統領選で勝利したプーチン大統領はロシアの指導者としての地位を揺るぎないものとしており、任期を全うすればその統治期間はスターリンを上回ることになる。
スターリンの時代、密かに粛清の実態を書き記した作家のワシーリー・グロスマンはロシアの歴史についてこう綴っている。「ロシアは、千年にわたる歴史のなかで多くの偉大なものを見てきた。世界的な軍事的勝利も、巨大な建築事業も、海と海をつなぐ運河も、この国は見てきた。しかし、たった一つのものだけはこの千年間ロシアは見たことがなかった。それは、自由である」。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年3月18日放送 22:00 - 22:45 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
20世紀初頭、皇帝・ニコライ2世が率いるロシア帝国は大英帝国に次ぐ広大な領土を有する帝国として世界に君臨していた。しかし、その内実は一握りの富裕層が国の富を牛耳り、国民の8割を占める農民たちは貧困に喘ぐ極端な格差社会だった。1914年に勃発した第一次世界大戦でロシア帝国はドイツ帝国と戦火を交えるが、近代化の遅れた軍はことごとく敗北を重ねる。開戦から3年後の1[…続きを読む]

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