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「カンチャナブリ(タイ)」 のテレビ露出情報

一昨年タイで改良した新しい路線は日本の政府や企業の支援を受け改良後も運営などの分野で技術協力が続くという。80年前タイで撮影された写真では戦時中に旧日本軍が建設したタイとミャンマーを結ぶ泰緬鉄道の開通式で日本から運ばれた蒸気機関車が映っていた。日本の蒸気機関車の整備に情熱を注ぐ2人の整備士を取材。バンコクにあるトンブリ機関区では715号機が動く遺産として今も走れる状態で保存され日本ではC56蒸気機関車と呼ばれている。1930年代に製造され日本国内を走っていたが泰緬鉄道で使用するため現地に運ばれた。タイと現在のミャンマーを結んだ泰緬鉄道の建設にはイギリスなどの連合国軍の捕虜らが多数動員され過酷な労働環境と伝染病で1万1000人以上が死亡している事から死の鉄道と呼ばれている。今は2両が動く遺産として保存されている。
約30年に渡り整備を担当するタイ人のプラユット・ジェップナーさんは日本の蒸気機関車が好きで整備士になる事が子供の頃からの憧れだという。整備技術について深く学ぶため日本への研修にも参加し、日本の整備士から直々にノウハウを習得。今はC56の整備を長年担当してきたベテランとして5人の整備士を束ねていた。最年少の整備士ユタプーム・メイラットさんは「C56の整備は自分のおじいちゃんの面倒を見ているような感じ」と話している。泰緬鉄道が走っていた鉄橋で毎年12月に行われる記念行事に向け2人は今年もC56の整備に取り組んでいた。蒸気機関車の整備で大切なのは手の感覚でプラユットさんは作業を通じて繊細な力加減を伝授していた。作業を終え支援点のためボイラーに火が入れられるが、圧力に耐えられず蒸気機関車のボイラーから蒸気や水が漏れていた。修理は間に合わず記念行事には戦後に日本から輸入された別の機関車を使う事になったという。
当日はプラユットさんが自ら運転室に入りギリギリまで調整を続け会場となった鉄橋の袂に設けられた舞台では困難を極めた鉄道建設と捕虜達の苦労を描いた劇が上映されている。記念行事でプラユットさんが整備した機関車が鉄橋を進み無事に鉄橋を渡り終えた機関車を多くの人達が出迎えていた。最年少の整備士のユタプームさんは「もっとプラユットさんから学びたい。日本の蒸気機関車をこれからも整備したい」などと話している。ベテラン整備士のプラユットさんは「日本とタイは兄弟な物だから親密に繋がっている。C56はそれを象徴している」などと話している。太平洋戦争中に日本からタイに渡った蒸気機関車は両国の友好な証としてタイの整備士達の手で受け継がれているという。

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