ネストルさん55歳の誕生日パーティー。この日集った人のほとんどがゴマ関係の仕事に従事している。栽培が始まったのはわずか30年前。もともと輸出用の綿花栽培が盛んだったこの地域だったが、90年代に世界中で栽培の大規模化が進み生産量が増えた結果価格が低迷。マルシアーノさんたち小規模農家の生活は一気に苦しくなった。農薬代などの借金に苦しむ人が増え、この地域の貧困は社会問題になった。そんな状況でマルシアーノさんたちが出会ったのがゴマだった。当時、ゴマを知る農家は少なく新たな収入の柱になるのか疑う人も多かった。ゴマ栽培をパラグアイに広めた中心人物が白沢寿一さん。北海道からパラグアイへ渡った移住者だ。日本からパラグアイへの集団移住が始まったのは1936年。第二次世界大後、生活の苦しかった農家が新たな農地を求め生活を築いていった。小規模農家の多いパラグアイ、手作業で収穫するゴマは機械化が進むアメリカやブラジルなど農業大国にも対抗できる作物だ。収穫までの日数も綿花の半分で、新たな収入源として好材料が揃っていた。しかしゴマで家族を養えると信じてもらうまでには多くの苦労があったという。白沢さんは何度も現地に足を運び、ゴマ作りの指導を行った。この地域で最初にゴマ栽培を始めた1人マルシアーノさんは白沢さんからもらったゴマの種を植えると1年目から800キロのゴマを収穫。程なく綿花栽培で負った借金を返済できた。ネストルさんもゴマを育てると収入は以前の倍以上に。この30年でゴマは大豆や牛肉に次いでパラグアイの輸出を支える農作物へと成長した。
