米軍が進駐軍としてやって来るとともにラジオから流れてきたのは敵性音楽として禁止されていたジャズであった。戦後、郁夫が買ったレコードが1枚だけ残っていた。やっと戦争が終わり大好きな音楽ができるという喜びの中、郁夫は斐太高校の教師が主催していた高山音楽聯盟に参加し、音楽好きの有志が集まり合唱曲・ジャズ・ハワイアンなど様々なジャンルの音楽を演奏しており郁夫はベースを担当した。昭和24年、郁夫は高山食糧事務所に就職。米の等級を検査する仕事だったが頭の中は音楽でいっぱいだった。昭和20年代後半の高山音楽聯盟の会員名簿には楽団のところに郁夫の名がのっている。やがて行くおは合唱部に所属していた1人の女性と出会い、一緒に演奏をするようになる。その助成の名は白川美沙子で後のミチコの母である。
