2025年12月16日放送 22:00 - 22:45 NHK総合

ファミリーヒストリー
清水ミチコ 〜“二人の母”がくれた愛〜

出演者
寺門亜衣子 今田耕司 清水ミチコ 
(オープニング)
ものまねの女王 驚きのルーツに迫る

毎年行われている清水ミチコの武道館ライブはファンでいっぱい。ものまねの持ちネタは300人以上である稀代のエンターテイナー清水ミチコのルーツに迫る。

キーワード
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オープニングトーク

きょうのゲストは清水ミチコ。「自分のルーツを知りたいがつまんない回とネットとかでならないですか…」と話した。

オープニング

オープニング映像が流れた。

ファミリーヒストリー 清水ミチコ
誰も見たことがない祖父・清作の人生

父に寄り添う1人の少女の名は清水美智子(ミチコ)。昭和35年1月に岐阜県高山市に生まれた。高山は江戸の頃の面影を残し、山間に築かれた町。ミチコは18歳で上京するまでこの町で暮らした。高山駅の近くにあるミチコの実家を訪ねると11歳年下の一郎さんがいた。父が自宅で経営していたカフェを受け継いで20年近くになる。父が幼い頃に祖父が亡くなったため、祖父や清水家に関することはほとんど伝えきれていない。清水家の歴史を探る手がかりがないか一郎さんに相談したところ、亡くなった祖母が保管していた古い箱を見つけ出してくれた。祖父の清水清作が作ったと思われる履歴書には原籍地は富山県婦負郡細入村蟹寺とあり、清水家の一番古い戸籍に書かれている本籍地と一致した。戸籍によるとミチコの曽祖父・竹次郎は加藤家の二男として蟹寺で生まれ後に清水家のいとと結婚し清水竹次郎となっていた。そして明治三十二年に竹次郎・いとの長男として生まれたのが祖父の清水清作である。ミチコはこの清作についてほとんど知らず、写真も見たことがない。どんな人物だったのか清作が育った細入村蟹寺・現在の富山市蟹寺に向かう。蟹寺地区は岐阜県との県境にある小さな集落である。現在の国道360号線沿いに清水家は暮らしていた。清作の幼少期の明治三十年代、清水家はどんなことを生業にしていたのか。細入村出身で地域の歴史に詳しい早稲田大学名誉教授・宮口侗廸さんによると明治時代になると30戸ぐらいの貧しい村集落だったとのこと。明治四十四年に猪谷尋常小学校を卒業となっており「細入百年の歩み」という写真集に清作が卒業した時の写真が載っていることがわかった。しかし少年たちの誰が清作かはわからなかった。大正9年に清作にとって転機となる一大事業が起こり、蟹寺地区に持ち上がった水力発電所の建設構想である。清作の履歴書によると大正十一年に電力会社の土木工手拝命とあり、23歳で発電所の建設に従事したことがわかる。清作を初め蟹寺の人々は発電所関連の仕事を得て150人ほどの集落は3000人にも膨れ上がった。しかし清作は発電所の完成を待たずに蟹寺を離れていたことがわかった。祖母が保管していた箱から出てきたのは4枚の書類。清作の人生を大きく変えることになったのが大正12年9月1日に発生した関東大震災である。清作は25歳で上京し、復興の仕事に従事するという決断をしていた。関東大震災の復興事業に詳しい日本大学理工学部土木工学科教授・大沢昌玄さんは「現場の人 肉体的な現場の人だったと思うが国に一定期間雇われて直接工事に携わっていたのではないか」とのことだった。大沢さんが清作の履歴書で注目したのは早稲田大学付属土木本科で学んでいたことであった。この学校は高度な技術者を養成するため、夜間に授業を行っていた。清作は一労働者として終わりたくないと自ら道を切り開こうとしていた。東京での復興局の仕事を終えた清作は昭和3年にゑいと結婚。同じ年に生まれたのが後のミチコの父・郁夫である。そして清作は新たなチャンスを掴んだ。新潟県南蒲原郡加茂町にある建設会社にスカウトされたのである。

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明治40年創業の小柳組の社長である小柳英治さんに清作が小柳組での仕事について書いた履歴書を見てもらった。清作は現場主任というリーダーになり、200人近い人たちを率いていた。小柳組に残る工事記録によると清作は鉄道建設の工事・それに伴うトンネル工事など大きな仕事を任されていた。しかし土木技師としてまさにこれからという時、清作は突然の悲劇に襲われる。昭和7年、33歳という若さで急逝したのである。清水一郎さんは仕事関連の資材置き場みたいなところに夜行ってたら蜂に刺されて死んだとのことで、葬儀の写真と思うものを見せてくれた。写真には清作が仕事をしていた建設会社・小柳組の花輪も写っていた。果たしてこれは清作の葬儀の写真なのか確認してくれる人を見つけた。蟹寺で暮らしていた清水家の子孫と親戚にあたる加藤家の子孫である。2人に写真を見てもらうと写真の背景にある山並みの姿は現在と同じだという。これは富山県細入村蟹寺で撮影された葬儀写真で清水清作に間違いなかった。大黒柱を失った一家の祖母・ゑいは子どもを連れ蟹寺から新たな土地に移り住むことにした。

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高山に移住した清水家 父・郁夫の青春時代

実家から援助を受けて岐阜県高山駅前に土地を買ったのである。わずか3歳で父を亡くしてしまったミチコの父・郁夫。少年時代にその寂しさを紛らわすかのように夢中になったものがあり、音楽であった。郁夫は昭和16年、斐太中学という現在の岐阜県立斐太高校に進学した。旧制中学は本来5年制だが太平洋戦争が始まり戦争が激化していく中、郁夫は1年早い繰り上げ卒業になっていた。高山の歴史に詳しい田中彰さんは郁夫と同じ時代に飛騨中学に通っていた人から当時の学校の様子を聞いていた。そして昭和20年8月15日に終戦。

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戦後 ジャズに夢中 音楽に打ち込む父

米軍が進駐軍としてやって来るとともにラジオから流れてきたのは敵性音楽として禁止されていたジャズであった。戦後、郁夫が買ったレコードが1枚だけ残っていた。やっと戦争が終わり大好きな音楽ができるという喜びの中、郁夫は斐太高校の教師が主催していた高山音楽聯盟に参加し、音楽好きの有志が集まり合唱曲・ジャズ・ハワイアンなど様々なジャンルの音楽を演奏しており郁夫はベースを担当した。昭和24年、郁夫は高山食糧事務所に就職。米の等級を検査する仕事だったが頭の中は音楽でいっぱいだった。昭和20年代後半の高山音楽聯盟の会員名簿には楽団のところに郁夫の名がのっている。やがて行くおは合唱部に所属していた1人の女性と出会い、一緒に演奏をするようになる。その助成の名は白川美沙子で後のミチコの母である。

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スタジオトーク

清水ミチコは「おじいちゃんの顔も知らなかったのでびっくりした」などと話した。

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母方・白川家のルーツ 曽祖父の名は栄三郎

続いては母・美沙子の白川家の歴史を追っていく。白川家の一番古い戸籍によると、ミチコの曽祖父が嘉永三年生まれの白川栄三郎である。栄三郎は高山市内から車で50分ほどのところにある高山市上宝村蔵柱の出身。戸籍によると栄三郎は農業をしていた田中与次右衛門の六男。その後高山市内で旅館を営む白川家に養子に入った人物だった。栄三郎の子孫が高山市内でお茶屋さんを営んでいることがわかり訪ねた。鍋島道雄さんと妻の雅子さんである。道雄さんは栄三郎の長女・こうの孫にあたる。

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ユニークな曽祖父「うそつき栄三」

栄三郎は「うそつき栄三」と呼ばれ、ユニークな人物だったと道雄さんは伝え聞いている。明治時代、高山に出てきた栄三郎は文右衛門坂と呼ばれるあたりで白川屋旅館を営んでいた。旅館の主となってからも栄三郎の冗談好きは変わらなかったようで、仲の良いお寺の住職に「○○さんが亡くなったらしい」と一言言いそんな話を知らなかった住職は慌てて○○さんの家へ行ったが○○さんはピンピンしておりそれを見て栄三郎はしてやったりと笑っていたという。栄三郎は単なるお調子者ではなく、人々に愛されていたと伺われる資料もあった。明治25年、栄三郎が営んでいた白川屋旅館が付近一帯の火事に巻き込まれた際に書かれた火事見舞帳で近所の人たちは栄三郎を心配しにぎりめし・風呂敷・こんにゃく・なわ沢山など生活に必要なものを届けてくれていた。温かい支援を受けた栄三郎は白川屋旅館を再建し火事のあとも街道筋で営業を続けた。そして栄三郎は大正13年に73歳で亡くなった。

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母方・祖父は食堂経営 歌人としての顔も

栄三郎の三男として生まれたのがミチコの祖父にあたる吉郎である。昭和4年、吉郎は高山市内で食堂を開いた。店の名はスズメ食堂。高山では珍しかった洋食をメニューに入れ人気店となっていった。吉郎は食堂の主人だけでなく和歌などを詠む歌人として活動するほか、ある作家の支援をしていた。それは飛騨高山を代表する作家・江馬修である。名作「山の民」は明治初めの飛騨の人たちの生き様を壮絶に描いた物語。吉郎はその出版を助けていた。江馬修は「高山の歌人で、スズメ食堂の経営者の白川吉郎が、私の計画を知って出版資金を提供してくれることになった」などと書いていた。

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歌や踊りに夢中 若き日の母・美沙子

そんな父のもとで育ったのが昭和7年生まれの白川美沙子で後のミチコの母である。吉郎の四女で美沙子の妹が東京にいることがわかり訪ねた。美沙子がどんな学生時代を送ってきたのかというとスズメ食堂の横にあった楽器店で沢山のレコードを手にしていた。

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同じバンドで演奏 若き日の両親 秘話

その音楽が後にミチコの父となる清水郁夫との出会いをもたらす。戦後になり聞こえてきたジャズに夢中になっていた2人は意気投合し、同じバンドで演奏した。ある日のこと、郁夫は食糧事務所にあったトラックを借りて荷台をステージに。そして高山で最も賑わうステージで美沙子たちと演奏を始めた。父とともに美沙子の演奏を聞いた妹の和子さんはこの日のことをよく覚えている。音楽で結ばれた2人は昭和33年に結婚し、2年後の昭和35年1月に誕生したのが美智子(ミチコ)である。前年は皇太子ご成婚のミッチーブームであり、皇太子妃の名にちなんで名付けられた。

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スタジオトーク

清水ミチコはうそつき栄三について「似てるんじゃないかと思いましたふと」などと話した。お母さんが宝塚に憧れていたことについては知らなかったという。

両親が離婚 多額の借金も

昭和35年1月に誕生したミチコ。しかしそのわずか半年後、父・郁夫と母・美沙子は離婚することとなる。美沙子は幼いミチコを残し、1人家を出ていった。幼いミチコは母の愛を全く知らぬまま父と祖母の手で育てられることとなった。さらに祖母が借金の保証人となり、郁夫は多額の負債を抱えることとなる。昭和37年、郁夫は長年務めていた食糧事務所をやめ駅前の自宅で商売を始めることにした。菓子や果物を売る商店の隣で喫茶店を始め、駅近くの立地ということもあり店は賑わった。

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母の愛を教えてくれた敬子への思い

そんなある日、郁夫は1人の女性に一目惚れする。高山の旅行会社に勤める鈴木敬子である。郁夫は幼稚園児だったミチコを敬子とのデートに連れて行った。そして昭和41年、郁夫と敬子は結婚した。敬子が母となった時のことをミチコは忘れられなかった。6歳まで母がいなかったミチコに敬子は温かい愛情を惜しみなく注いでくれた。昭和46年には弟の一郎が誕生し敬子も店を手伝った。

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父からの影響 ミチコも音楽好きに

ミチコは父・郁夫の奏でる音楽にも惹かれていった。喫茶店の営業が終わったあと、父の音楽仲間たちが集まってする演奏をよく聞いていた。ミチコが中学生になると郁夫は音楽好きの娘のためにピアノを買ってやろうと思い立つ。しかしお金はなく、郁夫が頼ったのは別れた妻でミチコの実母である白川美沙子であった。美沙子は郁夫と別れたあと、高山で郷土料理店を営み1人で生活していた。実母の美沙子がこっそり買ってくれたピアノでミチコは音楽の才能を育んでいく。昭和53年、ミチコは18歳で故郷を離れ上京。やがて音楽と笑いの才能を開花させていくことになる。

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清水ミチコは別れた実母が近所にいるというのは知っていたが会いに行きたいとは思わなかったという。ピアノを買ってくれたのが実母だと知ったのは大人になってからとのことだった。

ものまねの女王へ 応援し続けた両親

昭和61年、26歳となったミチコは渋谷のショー劇場でライブを開いた。それをきっかけにピアノの弾き語りとものまね芸で頭角を現していく。20代後半になると数多くのバラエティ番組に出演し、全国区の人気者になった。父・郁夫と母・敬子はその活躍を特別な思いで見守っていた。ミチコを応援し続けた郁夫は平成19年に80歳で亡くなった。

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見守っていた実母 愛してくれた母

もう1人、ミチコを陰ながら応援しつづける人が実母の美沙子であった。美沙子はミチコの出るテレビ番組の画面を写真に撮っていた。美沙子が数多く残していたアルバムには1枚だけ幼いミチコの写真が残されていた。ミチコと交流を持ち、食事をしながら話をするのをとても喜んでいた。美沙子は再婚することなく、令和2年に88歳で亡くなった。そしてミチコを育ててくれた母・敬子。今は弟の一郎とともに穏やかに暮らす母のことをミチコはどんなに忙しくても常に気にかけている。ミチコに母の思いを教えてくれた敬子。その思いを手紙にしたためてくれた。手紙を読んでいき、清水ミチコは「自分が知らなかったことが出てきてやっぱりもっと私は人に感謝しなければいけないと思った」などと話した。

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