- 出演者
- 今田耕司 池田伸子 佐野史郎
今回のゲストは俳優・佐野史郎。佐野史郎のスマホも待ち受け画面は207年前に撮影された佐野家の写真だという。佐野家は開業医の家系だという。そうした中で佐野史郎は俳優の道を選んだ。番組はそんな佐野史郎の家族の歴史を調べた。
- キーワード
- 春日文修
佐野史郎の故郷は島根県松江市。実家は幕末に建てられた家だ。その家を守ってきたのは佐野史郎の母の佐野禮子さんだ。佐野家は元々は春日という性だったという。佐野史郎の高祖父の春日文修が佐野性を引き継いだのだという。 若き日の春日文修は一人の侍を介抱した。その侍は佐野蔵大輔だという。そして春日文修は佐野蔵大輔が倒れていた場所に診療所を開業したという。春日家の本家は神社と関わりがあり、熊野神社に記録があった。江戸時代中期には神社で奏楽を担当していたという。春日家と佐野家は古くから姻戚関係があることがわかった。そこで佐野蔵大輔と関係のある佐野家を見つけた。そして先祖の中に春日家と関係のあることを記載した記録が見つかった。
スタジオでは佐野史郎がVTRを見て「はぁ~っとしか言いようがない」と感想を語った。
佐野史郎の高祖父の春日文修は佐野文修になり、松江で診療所を開き、地域で欠かせない診療所になっていった。文修から診療所を受け継いだのが佐野珠悦だ。佐野珠悦は戦争に軍医として従軍した。佐野珠悦は伝染病などの予防治療を行っていたという。息子の佐野文泰は後継ぎとして期待されていた。佐野文泰は医学専門学校を卒業して実家の診療所で働き始めた。佐野文泰は校医や往診などをしていたという。そんな佐野文泰の息子が佐野義和だ。
昭和16年(1941)12月8日に太平洋戦争勃発。中学生になった義和は学徒動員により鉄工所で働く。そのころ、一人の親友がいたという。親友は戦闘機の設計士になりたいと語る。義和は友人の設計士への夢を応援する。間もなく昭和20年(1945)8月15日に終戦。ある事件が起こった。設計士の夢を持った友人は激しいショックを受けていた。そのときの様子を二人の同級生だった古瀬力雄さんが語る。古瀬さんは親友と親戚でもあった。これでもって自分の一生は終わるんだという思い詰めた気持ちになって、自殺を。亡くなる前の晩は私の所で1泊、その前の晩は佐野さんのところで1泊。その晩に佐野さんの薬剤室に忍び込んで青酸カリを盗むと語った。義和の親友は服毒自殺を図った。古瀬さんは佐野さんは責任を感じたと思うと語る。以来戦争中のことを語ることはなかったという。
終戦から2年。昭和22年(1947)3月義和は東京医科大学に入学。(当時東京医科専門学校)義和の医科大学時代の同級生、百々猛さんは新潟の病院で91歳の今でも現役の医師。講義が始まると一番前に座っていたという義和の印象を語る。一生懸命ノートをとっていた。真面目と語る。当時の医学生には共通の思いがあったという。百々猛さんは「兵隊に行って亡くなった方も友達もある。徴兵延期というものがあったので複雑だった」と語る。「その人たちの分まで一生懸命勉強しなければいけないという気持ちは十分あったと語る。」。その後義和は故郷松江に戻り、赤十字病院で働く。
義和は看護師だった禮子と出会う。中村禎子さんは禮子の患者からの人気ぶりを語った。患者さんの方が盛り上がったと振り返った。禮子こそ義和の妻となる女性だった。
スタジオでは佐野史郎がVTRを見て「自分も長男だったから特別扱いのようなことがあった」と感想を語った。
玄関前で撮られた写真を紹介。続いて義和の妻禮子について伝える。禮子の父、安朗は北島家。出雲では有名な家だった。明治維新まで出雲大社の催事を司る国造と呼ばれる家。北島家は御神徳として80世の建孝さんまで続いている。馬庭孝司さんは明治維新までは国造は人前に姿を現さない方、庶民が会うことはまず無いと解説。建孝さんは父は小さいときからプレッシャーを懸けられた、要は逃げ切れなかったと語る。そんな家に育った禮子は、幼いころから音楽や演劇が大好きだった少女。小学校のときの同級生の糸賀景子さんは「演技が真に迫っていた」と語った。
昭和26年看護師になった禮子は、松江の病院で働く。二十歳の時、佐野義和と出会い結婚。村の人に見守れ、佐野家に嫁ぐ写真が紹介された。昭和29年(1954)4月10日から佐野家4代目の嫁となった。昭和30年(1955)3月4日に四郎が誕生。このころ義和が撮影した禮子の写真は、禮子への想いが現れていた。昭和39年(1964)、佐野医院を新設。新病棟を建てた。禮子の生活も一変。30食以上を準備する働き詰めの日々だった。往診する義和の運転も務めた。唯一くつろいだのは病院の屋上での一時だったという。
当時住み込みで働いていた田川洋子さんは看護師になりたてのころ姑から厳しく叱られていたことが忘れられないという。姑から厳しくしつけられ甘やかすことはゆるされなかったという。田川洋子さんは「禮子さんがかわいそうにと思ったときの行動は、私ではなくてこの人に怒られると思い、自分は絶対に姑さんのおるとこに嫁に行っちゃいけんと思って」と語った。
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- 佐野禮子
代々医者の家を守り続けた佐野家だが義和と禮子には気がかりな問題があった。長男史郎のことである。ロックバンドに夢中になり成績が伸び悩んでいた。史郎も当然医者になるものだと思っていたら勉強は嫌いで、言うことは聞かない、手こずっていたと振り返った。陰口はいっぱい叩かれたと又聞きで聞いたなど当時を振り返った。昭和49年、高校を卒業した史郎は東京の美術学校に進学。芝居をはじめるようになる。禮子は密かに仕送りを行い、舞台があると聞けば友人に見に行ってほしいと連絡をしたという。
一方、義和は不安をつのらせていた。次男の和也さんは実家を継がず勤務医の道を進もうとしていた。最終的に妹が婿を取るようにということになったと妹の優子さんは語った。町医者としての使命をまっとうしなければ行けない、地元の期待や責任感で医者の家を続けなければいけない、辞める勇気が無かったんだと思うと語った。
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- 佐野義和
そんな中、「夢みるように眠りたい」で史郎は初主演を果たす。さらに「ずっとあなたが好きだった」でマザコン役を演じた史郎の名前は一躍知られるようになる。田川洋子さんは義和が、「知り合いの人がなんか気持ちが悪いテレビだって言ったけどなそれが大成功だわや」と言っていたことを語った。平成12年義和は胃がんで倒れる。昏睡状態で2日目、禮子が枕元で独り言をつぶやいた時、涙を出した。聞こえたんだと語る。平成12年(2000)11月8日に死去。亡くなる半年前に佐野医院は史郎の弟、和也さんが継ぐことになった。佐野和也さんは、記憶にないけど、「長男がならないならなるしか無いとすりこまれていたようだ」と語った。佐野医院は開業以来150年の歳月を重ね、今も守られている。
スタジオでは、佐野史郎が何度も謝っていたと今田耕司が語る。また母親が優しいし大変だったと今田耕司が語る。続いて今田耕司から「大成功やわ」という父の言葉について佐野史郎が質問を受けると「それはうれしい、嫌いじゃなかったんじゃないかな、父親も」と語った。ファミリーヒストリーについて佐野史郎は「先代がいてずっと今がいるんだなっていうのがこうやって追って行くと実感される」と語る。
義和は佐野医院の薬袋の中に、撮影した8mmフィルムを残していた。子どもの成長と家族の記録だった。義和の同級生百々猛さんは佐野家を尋ねた。そのときの「長男が跡を継いでもらいたいと思ったんだけれども、役者になったけど応援してくれよ。」と言われたことが忘れられないと語る。続いて新潟に芝居が行われるので切符を買った。言葉が残っているから応援してやろうかなという気持ちが十分あります。と語った。
史郎を身籠った時、母の佐野禮子さんは胎教が悪かったねとか言っていると語る。また医者にならなくて、芸術の道に入った子どもがほしいなと思っていたことを明かした。佐野史郎は不思議なもので、マザコンのドラマでヒットしたので母親のことは、やっぱり佐野史郎ってそういう人だったんだというのはあるかもしれないと語った。
「ひらやすみ」の番組宣伝。
