- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 立川志らく
オープニング映像。
昭和38年8月、東京に生まれた立川志らく。祖父・深谷伊三郎は戦前から活躍した鍼灸師。お灸の大家といわれた人物だった。生まれは 明治33年、皇居近くの東京市番町地区(現:千代田区四番町)に生まれる。江戸時代は武家地だった場所で、高級官僚や大会社の役員たちが多く暮らす街だった。屋敷住まいの子供が多く、小学校入口には人力車夫の待機所が設けられていた。伊三郎は卒業後、進学せず奉公人として働く。母が小3で亡くなり父が別の女性と世帯を持ったため。
立川志らくの祖父・深谷伊三郎。小学校を卒業して働いたのち、24歳で日本大学専門部法律科に入学。通信教育で1年間学び、卒業試験に合格して無試験で入学。学歴を問わず優秀な人材を発掘するための制度。金融恐慌など社会が混沌としていた昭和2年、大学を卒業。自分に何ができるのかを考えた結果、肺結核で苦しんだときにお灸に救われた自身の経験から鍼灸師の道へ。自ら道具を開発するなど新たな治療法を確立させ、お灸の効果を客観的な文章で伝え広めることなどに尽力。
立川志らくの父、昭和10年に生まれた英雄。好奇心旺盛で中学時代にはお灸を習得したほか、絵画にも熱心に取り組んだ。ギタリストのアンドレス・セゴビアに憧れ、クラシックギターにも打ち込む。24歳からプロとして活動も、父・伊三郎からは反対された。ギター教室で知り合ったのが後の妻・新間富士子。当初は結婚を反対されるも、婿入りすることで昭和37年に結婚。後に志らくとなる長男・一弘が生まれる。伊三郎も英雄の活動を支持するようになったが、昭和49年に亡くなった。
立川志らくの母・新間富士子は静岡県浜松市の八幡地(現:旭町)出身。高祖父・新間金三郎は当時としては珍しく選挙権を持っていた裕福な人物。その孫・好子(志らくの祖母)は長女として生まれ、大正13年に卒業。翌年に結婚、浜松駅前の新間家で暮らした。土地を貸す事業で生計を立てていた。昭和4年、夫が急死。
志らくの祖母・新間好子。夫が急死したのち、学生時代から思いを寄せていた川井明から求婚される。川井家は江戸時代から続く浜松市の農家。中学をトップの成績で卒業し、昭和4年に中央大学に進学。好子と一緒になろうと、親族の反対を押し切っての進学だった。結婚がかない、昭和16年には志らくの母である富士子が生まれる。実家は昭和20年の本土空襲で焼失。
立川志らくの祖母・新間好子。終戦後、焼け野原になった土地で旅館を始めた。定員19名、料金は1泊2食付で800円~1000円。好子は趣味の踊りや三味線も習い続けた。好子の夫・新間明は昭和44年、64歳で死去。
立川志らくの父・新間英雄はギタリスト。多趣味な性格で、けん玉も得意だった。志らくも弟・清登と共にけん玉に熱中。ほか、ダーツやビリヤードにも打ち込んでいた。志らくが落語を聞くようになったのも父の影響。母・富士子も好きなことに没頭する性格で、専業主婦になってから長唄三味線を習い始めた。
昭和57年、日本大学芸術学部に入学した立川志らく。大学4年生の夏、落語家になることを選んだ。昭和60年、落語界のアウトロー的存在だった立川談志に入門。落語を知ったのは多趣味だった父の影響。
大学を4年次で中退して落語家の修行を始めた立川志らく。ある日、両親が談志に挨拶。緊張している様子は一切見せなかった。入門3年目の昭和63年、二ツ目に昇進。このとき、祖母・好子から高価な袴を贈られた。好子は平成5年、88歳で亡くなった。弟・清登は40歳で父と同じギタリストに転向。志らくは落語以外にも興味のあることに貪欲に取り組んでいる。
次回の「ファミリーヒストリー」の番組宣伝。