- 出演者
- 今田耕司 福山雅治
今夜は福山雅治さん。長崎市出身の福山さん、節目の年にはふるさとで大規模なライブを開催してきた。会場は稲佐山、自らの歌で「約束の丘」と呼んだ山になる。長崎とともに歩んできた福山さんのファミリーヒストリーとなっている。
福山家の戸籍をたどると福岡・柳川市にルーツがあることがわかった。水郷の町として知られる柳川は今も福山家の本家がある。福山喜代子さんの6年前に亡くなった夫が福山さんの父・明のいとこにあたる。福山家はかつて自動車の販売整備をする福山モータースを営んでいた。それ以前は別の仕事をしていたという。柳川古文書館には大正13年の柳河商工案内があり、そこには仏具職で祖父の兄・福山守一の名前がある。曽祖父の茂市は幕末の安静4年生まれ、明治の始めに仏壇職人になったという。かつて柳川では多くの仏壇職人が腕をふるい、広く人気を博していた。地元の天満神社の灯籠には茂市の名前が刻まれている。福山さんの祖父は三男として生まれ、仏壇作りを手伝っていた。
敬一の五男博さん、敬一は海軍の通信員だったと話した。敬一の任地は鎮海、日露戦争をきっかけに軍港として開け日本人が移り住んでいた。鎮海での敬一の足跡を調べる、戦前の日本家屋も残っていた。休日は日本兵が街に出て過ごしていた。敬一は石田久と出会う、後の雅治の祖母。久のルーツは山口市、父角治郎は石部の材木商の息子、結婚後妻の実家のある山口に移り住み商売していた。久の三女克子さんによると、詩人中原中也と久の弟と同級生だった。久は女学校卒業後、父の仕事の関係で朝鮮半島に渡る。久の甥秀人さん、角治郎がしていた職業は土木建築請負業と話した。その後石田家は仕事の拠点を鎮海に移す。ある日久は敬一と出会うことになる。当時の記録による久の家の住所へ、近所でも美人と評判だった久、敬一は結婚を申し込む。その後日本に戻った2人、柳川で結婚した。昭和の始めになると長崎に移り住む。長崎市内の敬一の姉が嫁いだ家には敬一が手がけた仏壇が残されている。昭和7年、敬一と久の間に次男が生まれた。
福山雅治は祖母については出身が山口であることと朝鮮半島にしばらく住んでいたという話は知らなかったと言った。また、祖母の弟と中原中也が同級生だったことはもった早く言ってくれればのにと話した。
福山さんの父・明さんは名前の通り明るい性格だった。昭和16年、明さんが9歳の時に太平洋戦争が勃発すると長崎も度々空襲を受けるようになった。福山家も疎開を余儀なくされ1km離れた稲佐山の麓に引っ越した。そして長崎は昭和20年8月9日、原爆の悲劇に見舞われた。祖母の久さんが残したテープによるとその日はカンカン照りだったという。久さんが米の配給に並んでいる時原爆が炸裂した。明さんの姿が見えなくなり必死に探していたが、近所のおばさんにまっ黒焦げで亡くなってたと言われたという。しかし数時間後、明さんはボロボロになりながら戻ってきたという。
被爆したときの明の行動を記録した文書が長崎市役所に保管されていた。その時にいた場所を示す地図も描き込まれていた。明は座っていた石段のそばの防空壕に逃げ込んでいた。長崎原爆資料館の学芸員とともに明が逃げ込んだと思われる防空壕の跡を見つけた。福山家は丘陵地が影になって直接爆風が来ることは避けられてと推測した。
福山雅治の父が戦後に居た長崎は漁業などで復興を遂げていった。父親の同級生は父親について「優しくて頭が良かった。歌もうまかった」などと話した。20代になり父親は祖父の不動産業の手伝いを始めたという。近くに住んでいた人は「明るい人で主人と飲み友達だった。麻雀やお酒が好きであんまり働かなかった」などと話した。また近所の酒屋の男性は「酔っ払って大砲の薬莢にお酒を入れて飲んでいた」などと話した。父親は後に近所の駄菓子屋で妻となる女性に出会ったという。
- キーワード
- 長崎県
福山雅治は原爆投下の日について「父のほうが側溝に逃げ込んでと記憶してた。そうじゃなかったんですね。あと歌が上手かったとは知らなかった」などと語った。
平成13年に発表した「蜜柑色の夏休み」、母方の祖母貞子さんの思い出を歌っている。福山さんは祖母の蜜柑農園に行くのが楽しみだったという。ここからは母方のルーツ山口県をたどる。大正11年に生まれた祖母の貞子さんが育ったのは福岡県大川市。貞子さんのいとこの高田泰さん93歳。貞子さんは大川市で商店を営む高田家の長女だった。すぐとなりに住んでいた泰さんは貞子さんを姉のように慕っていた。昭和18年、貞子さんに縁談が持ち上がる。相手は蜜柑農園の長男・山口力磨さん。商家の娘に農家の嫁がつとまるのか不安を覚えたが貞子さんは結婚を決断。山口家は大村湾を望む長崎・大草村にあった。結婚した貞子さんはすぐに農作業に追われ山の斜面を利用した蜜柑の栽培は重労働だった。昭和20年待望の第一子で後に福山雅治の母となる勝子さんが誕生した。2人にはその後4人の子供が生まれた。しかし昭和32年に力磨さんが若い頃から患っていた腎臓が悪化したことにより40歳で亡くなった。貞子さんは女手一つで蜜柑農家を続け収入を増やそうと蜜柑畑を広げていった。
福山さんの母・勝子は手に職をつけようと長崎にある洋裁の専門学校に通い始めた。当時、叔母の営む駄菓子屋が稲佐山のふもとにあった。勝子は学校帰りによく叔母の元を訪ねたという。店に出入りしていたのが父の福山明だった。2人はほどなくして結婚を決めた。明は仲人を頼んだ男性と、勝子の母に結婚の許しを得るため、大草を訪れた。2人は昭和42年に結婚した。
昭和44年、福山雅治が産まれた。福山家は笑いが絶えない明るい家庭だったという。福山雅治の兄の一明さんは父について「優しい。意外とひょうきんなところもあって口やかましくいう父親ではなかった」などと語った。福山雅治はインタビューで父について「麻雀ばかりしてた。不動産なんですけど」などと話している。福山雅治の父の同級生は「息子さんたちは遊び人って言うでしょ。僕は遊び人とは思わんですよ」などと語った。昭和58年、中学3年だった福山雅治は兄とバンドを結成し夢中になった。昭和60年、52歳の父は体調を崩し入院した。母は入院中の父の髪を福山雅治に洗ってもらい嬉しそうにしていたことが忘れられないという。昭和60年、父は10か月の闘病の末53年の生涯を閉じた。父の死後4年後に父の母も亡くなった。
福山雅治は「かっこつけしい。自分の弱いところを見られたくない、見せたくない人だったと思う。自分に似ている」と語った。
17歳で父を失った。当時、打ち込んでいたものはギターだった。高校卒業後、福山雅治は就職するも5か月で退職し、プロのミュージシャンを目指し上京する。親戚の中には状況を反対した人もいた。しかし母方の祖母は福山雅治の背中を押した。上京し半年後、オーディションを受け合格しミュージシャンとしてデビューした。ファーストアルバム1曲目のPEACE IN THE PARKには長崎への想いが込められていた。デビューし3年後、5枚目のアルバム「Calling」で初めて1位を獲得した。さらに出演したドラマ「ひとつ屋根の下」が大ヒットした。第44回NHK紅白歌合戦に初出場した。デビューから10年、長崎の稲佐山で記念ライブを行った。
福山雅治は「改めて見てもみなさんが言う方が正しい。成功するわけないし上手くいくわけない。だからラッキー」などと語った。
福山雅治の母方の祖母は86歳で亡くなった。生前、母方の祖母は伊予かんを「仏様、先祖様にお供えください」と収穫時期にはお供えを賜ったという。伊予かんの畑は現在、荒れ果てている。しかし1本だけ残っていた木が実をつけていた。母方の祖母が亡くなった翌年に道標を発表した。そして昨年12月、福山雅治は父の名前をつけたアルバムを発表した。
福山雅治の父が亡くなり35年が経った。福山雅治は故郷・長崎、家族を思い活動を続けている。福山雅治は父の肉声を聞いて「忘れていたけど聞いた瞬間に思い出せる」などと語った。
ファミリーヒストリーの次回予告。
あおぞらビールの番組宣伝。