- 出演者
- 今田耕司 大谷舞風 鈴木砂羽
鈴木砂羽のルーツを辿った。砂羽は、昭和47年、画家の両親の下に生まれた。父・俊さんは絵画教室の代表を務めながら、画家・西条俊生として活躍している。俊さんが画家になったのは父・貞夫の影響があった。貞夫は内閣総理大臣賞を授与されるなど浜松を代表する画家として活躍。砂丘画家とも呼ばれた。貞夫の実家は、鮮魚の販売をしながら料理や仕出しも行う店を営んでいた。昭和16年、太平洋戦争が勃発。翌年、貞夫は海軍に招集された。絵を学んでいた貞夫は戦車や軍艦の絵を描くことを強制された。貞夫は調理担当の主計兵として駆逐艦・沖風に乗船したと思われる。昭和18年1月10日 12時50分、千葉・勝浦沖でアメリカ軍の潜水艦の魚雷2発が命中。沖風は沈没。仲間たちが溺れていく中、貞夫は冷たい水の中を泳ぎ、陸までたどり着いたという。貞夫は爆撃のショックで耳が聞こえなくなった。終戦後、貞夫は再び絵の道に進むことを決意。しかし、明日の生活も見えない時代。美術を志す者の風当たりは厳しいものだった。そんなときに出会ったのが、砂羽の祖母・郁子だった。
鈴木砂羽のルーツを辿った。砂羽のことをいつも気にかけていた父方の祖母・郁子。そんな郁子のルーツは静岡・周智郡森町にあった。砂羽の4代前の高祖父・藤吉は茶商として財を成した。その藤吉の長男として生まれたのが貞三。郁子が多大な影響を受けた人物。貞三は澱粉から糖を作る工場の事業などで成功を収めた。ところが、大正9年5月26日 23時10分、轟然たる一大音響と共にボイラーが爆発。幸い貞三はいなかったが、作業員に多数の死傷者を出す大惨事。会社は解散した。その後、郁子が生まれて奮起した貞三は、大阪に移り、お茶の事業を始めている。昭和17年、貞三は享年54でこの世を去った。その3年後、大阪大空襲に見舞われ、自宅が跡形もなく焼け落ちた。そして、郁子が疎開したのが静岡・周智郡森町。この地で出会ったのが、奇跡の生還を果たした貞夫だった。郁子は貞夫に「画家になる夢を諦めるな」と発破をかけていたという。
鈴木砂羽は祖父・貞三について「すごいじゃないですか、貞三さん。一回没落しても、もう一回成功に持ってくる」などと話した。
- キーワード
- 伏原貞三
鈴木砂羽のルーツを辿った。砂羽の母・和子も画家。和子の父・三郎は医師。先祖も代々医師の家系だった。砂羽の6代前・曽根元みんは世界初の全身麻酔による外科手術を成功させた華岡青洲に師事していた。三郎は秋田・東成瀬村で10年にわたって地域の医療に尽くした。そんな父の背中を見て育った和子。内気で一人遊びが好きな子だった。和子が自分の殻を破る唯一の手段が絵を描くことだった。
鈴木砂羽のルーツを辿った。父・俊は砂羽の成長を8ミリフィルムに撮り続けてきた。家族の幸せな時間があった。ところが、両親にすれ違いが生じるように。砂羽が13歳のとき、両親が離婚。母と娘、一心同体のような生活が始まった頃、砂羽は息苦しさを感じるように。いつも傍にいてくれたのは祖母・郁子だった。そんな中、砂羽が打ち込んでいたのがモダンバレエ。高校卒業後、砂羽は俳優を目指して上京を決意。劇団文学座の門を叩いた。
鈴木砂羽のルーツを辿った。砂羽の活躍を誰よりも楽しみにしていたのが祖母・郁子。早くに父を亡くした郁子。父と離れても必死に夢を追いかける砂羽への特別な想いがあったという。
鈴木砂羽は「私は充分、2人(両親)から愛ってものを受け取ってる」と話した。
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