- 出演者
- 寺門亜衣子 今田耕司 松岡修造
今回のゲストは松岡修造。
松岡修造の父方の曽祖父・小林一三。一三の実家布屋は生糸などを売って財を成した大店。松岡修造の5代前の小平治維明は40代半ばで病死。一族は小平治の娘に夫を迎え跡を継がせたが一三を産んで約半年後に亡くなった。父は養子縁組を解かれ実家へと戻り、一三は本家へ引き取られた。
一三は明治21年、慶應義塾に入塾。当時は福沢諭吉も健在で塾生たちに独立自尊の精神を説いていた。一三は塾の寮生たちで作る冊子の編集長を務めていて、若干17歳で新聞に小説も連載していた。三井銀行に入行したが、小説家になる夢を諦められなかった。
一三は芸者をしていた丹羽こうに一目惚れ。一三と同じく早くに両親をなくしたこうは優しくて気丈な女性だった。明治33年に2人は結婚。修造の祖父辰郎が誕生した。親の愛に飢えて育った一三がようやく手にした家族の幸せだった。一三は銀行を辞め大阪の鉄道会社に入社。負債を背負う覚悟で箕面有馬電気軌道を開業した。沿線の田園地帯を丸ごと買い取り分譲地として売り出したという。日本初の住宅ローンも始めた。終着駅の箕面には動物園や宝塚には温泉施設も建設した。
チャレンジ精神で一三の夢はどんどん広がる。鉄道沿線の温泉施設で宝塚少女歌劇を始め、後の宝塚歌劇団となった。東の宝塚、東宝は日本の映画界を牽引した。昭和4年には日本初の駅直結型デパート阪急百貨店を開業。不遇だった少年時代と家族の愛への渇望、それが一三を大実業家へと導いた。
松岡節子の祖父は修造と同じ名前、松岡修造。初めて松岡姓を名乗ったのはおよそ250年前の当主。初代修造は安政6年に誕生。米の取り引きを営んでいたという。当時米の価格は毎月のように乱高下を繰り返していたが、初代修造は持ち前の頭脳と勘の良さで財を成した。
大正11年、初代修造は船会社を創業した。初代修造は浮き沈みの激しい海運業界でも勝負強さを発揮。修造の曽祖父潤吉が船会社を継いだ。潤吉は実業団スポーツの運営も行い、合宿にも参加していた。
昭和5年松岡節子と辰郎は結婚。辰郎は松岡性を名乗り、修造の父功が誕生。太平洋戦争では松岡汽船など民間の船も輸送船として徴用された。終戦、松岡汽船は14隻の船と237名の船員を失った。
修造の母静子はかつて宝塚歌劇団の男役スター、千波静として活躍していた。静子の姉と妹も元タカラジェンヌ。母方の山本家は地域の農家のまとめ役だった。山本家の次男として生まれた喜之輔は穏やかな人柄で周りには自然と人が集まってくる好青年だった。幼稚園の先生をしていたフサ子と結婚。駆け落ち同然で上京し喜之輔は町工場で働き始め、長女・次女・長男が生まれる。会社も立ち上げた。
太平洋戦争の空襲で喜之輔は家も工場も失った。長男は梯子から転落し、翌日あっけなく亡くなっている。フサ子は娘たちが丈夫な体になるように、バレエ教室にも通わせた。喜之輔は工場を再建し事業を軌道に乗せた。三女と四女も生まれ、以前にも増して賑やかな家庭になった。