昭和26年看護師になった禮子は、松江の病院で働く。二十歳の時、佐野義和と出会い結婚。村の人に見守れ、佐野家に嫁ぐ写真が紹介された。昭和29年(1954)4月10日から佐野家4代目の嫁となった。昭和30年(1955)3月4日に四郎が誕生。このころ義和が撮影した禮子の写真は、禮子への想いが現れていた。昭和39年(1964)、佐野医院を新設。新病棟を建てた。禮子の生活も一変。30食以上を準備する働き詰めの日々だった。往診する義和の運転も務めた。唯一くつろいだのは病院の屋上での一時だったという。
当時住み込みで働いていた田川洋子さんは看護師になりたてのころ姑から厳しく叱られていたことが忘れられないという。姑から厳しくしつけられ甘やかすことはゆるされなかったという。田川洋子さんは「禮子さんがかわいそうにと思ったときの行動は、私ではなくてこの人に怒られると思い、自分は絶対に姑さんのおるとこに嫁に行っちゃいけんと思って」と語った。
代々医者の家を守り続けた佐野家だが義和と禮子には気がかりな問題があった。長男史郎のことである。ロックバンドに夢中になり成績が伸び悩んでいた。史郎も当然医者になるものだと思っていたら勉強は嫌いで、言うことは聞かない、手こずっていたと振り返った。陰口はいっぱい叩かれたと又聞きで聞いたなど当時を振り返った。昭和49年、高校を卒業した史郎は東京の美術学校に進学。芝居をはじめるようになる。禮子は密かに仕送りを行い、舞台があると聞けば友人に見に行ってほしいと連絡をしたという。
当時住み込みで働いていた田川洋子さんは看護師になりたてのころ姑から厳しく叱られていたことが忘れられないという。姑から厳しくしつけられ甘やかすことはゆるされなかったという。田川洋子さんは「禮子さんがかわいそうにと思ったときの行動は、私ではなくてこの人に怒られると思い、自分は絶対に姑さんのおるとこに嫁に行っちゃいけんと思って」と語った。
代々医者の家を守り続けた佐野家だが義和と禮子には気がかりな問題があった。長男史郎のことである。ロックバンドに夢中になり成績が伸び悩んでいた。史郎も当然医者になるものだと思っていたら勉強は嫌いで、言うことは聞かない、手こずっていたと振り返った。陰口はいっぱい叩かれたと又聞きで聞いたなど当時を振り返った。昭和49年、高校を卒業した史郎は東京の美術学校に進学。芝居をはじめるようになる。禮子は密かに仕送りを行い、舞台があると聞けば友人に見に行ってほしいと連絡をしたという。
