22万人以上の死者・行方不明者を出したインド洋大津波からきょうで20年となる。7歳のとき、被害が甚大だったインドネシア・スマトラ島北部のアチェ州で大津波に遭い、家族を失ったうえ、自身も足を切断する大けがを負った女性がいる。被災地の悲劇のシンボルとなった少女の20年を見つめた。津波から7年後に製作された映画「デリサのお祈り」では、津波で丸1日海に漂流し奇跡的に助かったものの、家族を失い、足に大けがを負った少女の姿が描かれている。インドネシアの映画賞にノミネートされるなど、注目を集めた。映画のモデルとなったデリサさんは、今もこの町で暮らしている。父親は別の町にいて無事だったが、母と兄、姉は今も行方が分かっていない。被災後の生活は厳しく、父親は自宅で行う雑貨の販売や年金でなんとか生活費を捻出していた。NGOなどからの支援で作ったデリサさんの義足は、成長に合わせて交換が必要だったが、その余裕はなく、14歳まで同じ義足を使った。体に合わない義足を使い続けた結果、立っていられなくなるほどの痛みに襲われることもあった。この間、インドネシアは急速に発展し、復興を遂げていく。アチェの町はにぎわいを取り戻し、人口は被災前の水準まで戻った。一方で、行政やNGOからの援助はほとんどなくなり、デリサさんは自分たち被災者が「発展から取り残された」と感じた。そして18歳のとき、最愛の父も病気で突然この世を去った。デリサさんは奨学金で進学した大学を辞め、銀行で派遣社員として働きながら家計を支えることになった。そんなデリサさんを支えたのは、亡くなった父が再婚した義理の母だった。いつも「あなたならできる」と励ましてくれた。転機が訪れたのはことし。目標にしていた地元最大手の銀行に採用された。夢がかなったことで、今度は自分が人々の役に立ちたいという気持ちが強くなった。デリサさんはこの日、大学での講演に臨んだ。津波で障害を負った経験で感じたことを話してほしいと依頼された。悲劇の少女と呼ばれ、苦労を重ねた20年。それでも前を向き生きてきたデリサさんの再出発。デリサさんは今月、東日本大震災の被災地の仙台市を訪れ、同じように津波の被害に遭った人たちに向けて講演を行った。また、きょうは地元アチェ州で行われる追悼式でも講演することにしている。