ジャンは単身船に乗り込んで漂流に未来を託した。初日から外国船が目の前に現れたが、見て見ぬふりをする船がほとんどだった。この当時、ベトナムを脱出するボートピープルは国際的な社会問題となっており、人道的支援を求める声は世界的に高まっていた。手を差し伸べれば受け入れ先までの支援が必要となり、輸送費などを含め莫大な予算と労力が救出した国の負担となる。そのため、ボートピープルの受け入れは一筋縄ではいかなかった。4日後、ついに食料が底をつき水もなくなってしまった。そんな時、停泊する船の灯りが見えた。ようやく船の近くにたどり着いた頃には朝になっていた。この時ジャンたちが見つけた船こそ宮城船長が乗る沖縄水産高校の実習船「翔南丸」だった。日本政府も1978年にボートピープルの支援を表明したものの、まだ支援場所などが数か所設置され始めた程度。受け入れには慎重な声も少なくなかったという。宮城船長は救助の道を選んだ。船の大きさから乗っているのは数人程度だと思っていたが、その数は105人だった。翔南丸の定員は75人で、すでに生徒・教員69人が乗船していた。全ての難民を船に移すと105人の様子を確認した。ジャンは高熱に侵されていた。宮城船長は沖縄県実習船運営事務所に連絡し、そこから外務省まで報告があがり、政府は乗船オーバーを理由に帰国を許さなかった。
