2026年3月11日放送 19:00 - 21:00 フジテレビ

奇跡体験!アンビリバボー
キセキの空港!!☆羽田のだれも知らないヒミツSP!!☆

出演者
日村勇紀(バナナマン) 設楽統(バナナマン) 堤礼実 佐藤大樹(FANTASTICS from EXILE TRIBE) ゆい小池 
羽田空港 だれも知らないヒミツSP
今夜は…

今夜は明日行ってみたくなる羽田空港のアンビリバボーなヒミツを一挙大公開。

キーワード
東京国際空港渋谷区(東京)
観光地としても大人気 奇跡の空港

95年前、民間の飛行場としてオープンした羽田空港。開港当時の映像が残されている。その後、拡張や修繕を繰り返し現在の大きさになった。今でも日々改良工事が行われていることから、「空港界のサグラダ・ファミリア」とも呼ばれている。

キーワード
グーグル国土地理院東京国際空港
新お土産スポット自販機の聖地

今、多くの空港利用客の人気を集めているのが自動販売機。羽田空港にはロケ弁の定番「オーベルジーヌ」の自販機がある。他には全国各地の有名ラーメン店の味が手軽に味わえる自販機も。北海道の物産を集めた自販機もある。京都の老舗日本料理店の自販機では豆大福が買える。KOKUYOの自販機もあり、高品質な文房具はインバウンド客に大人気。NEW ERAの自販機も。

キーワード
9TWENTYBセットNEW ERAコクヨスペシャルボックス又こい家 羽田店本場北海道ほたてバター風味ラーメン東京国際空港欧風カレー オーベルジーヌ 三田店特選にぎり真鯛と貝の塩ラーメン豆大福
羽田の恐怖 封印された祟り伝説

羽田空港の端っこにはポツンと鳥居がある。もともと羽田は江戸中期に干潟を埋め立て造られた島。そのため、塩害や水害に悩まされていたという。そこで神社を創建すると被害が和らいだ。その御利益から神社を中心に産業が栄え、羽田は観光名所。戦後、GHQが空港を接収すると鳥居や神社を撤去することになった。鳥居を撤去しようとすると作業員が怪我をしたり責任者が病死したりしたため、鳥居だけはその場所に残されたという。

キーワード
Google Earthはねたのわたし弁天の社グーグルダグラス・マッカーサー日本空港ビルデング朝日新聞社東京国際空港歌川広重[2代目]毎日新聞社穴守稲荷神社連合国軍最高司令官総司令部

祟りがあると恐れられ、空港の前に不自然に残された鳥居。その後、この場所は駐車場に。その後、さらに規模を拡大する中で滑走路計画と鳥居がどうしても重なってしまったため、移設に踏み切ったという。工事の際には神社の住職や地元住民たちが必死に祈祷し続けたという話も。

キーワード
グーグル日本空港ビルデング朝日新聞社東京国際空港毎日新聞社
まさかの羽田アニマルヒストリー

1972年、羽田空港にパンダが降り立った。1931年、初めて空港から飛びたった飛行機に乗っていた生き物は松虫と鈴虫。当時日本の租借地だった大連にいる日本人に故郷の音色を届けた。「現在の第3ターミナルに位置していたアニマルスポットはなに?」とクイズが出た。

キーワード
はねだ日本橋グーグルパンダ国土地理院大連(中国)恩賜上野動物園朝日新聞東京国際空港松虫江戸小路鈴虫

羽田空港にはかつて競馬場があった。地方競馬場として日本一の売り上げを誇ったものの戦中、競馬場は都道府県あたり一つだけという法律が施行され廃業になった。地方競馬場として残された大井競馬場では毎年、羽田盃が行われている。

キーワード
国土地理院地方競馬全国協会大井競馬場東京国際空港羽田盃羽田競馬場
世界が注目 究極の癒やしゾーン

羽田エアポートガーデン内にあるホテルの最上階にある「泉天空の湯 羽田空港」。天然温泉で露天風呂もある。塩分濃度が非常に高く皮膚の乾燥や冷え性に効果が期待できる。岩盤浴、ボディケア、レストランまである。スパだけの利用も可能。羽田の温泉のはじまりは明治時代。空港開発の過程で温泉事業は衰退したが、8年前温泉動力装置を設置。地下1500mから汲み上げ温泉事業を復活させた。

キーワード
マギー審司住友不動産東京国際空港泉天空の湯 羽田空港羽田エアポートガーデン赤富士御膳 メガローストビーフ丼
奇跡の空港 最強パワースポット

羽田空港には式場がある。日本で唯一飛行機をバックに挙式できる。親族が遠方に住んでいる方は利用しやすく、海外から招待する場合も利便性がいい。さらに、空港内には神社もある。多くの航空関係者が祀られている。近年、合格祈願のパワースポットとしても有名に。

キーワード
東京国際空港羽田航空神社
羽田ミステリー 毎年起こる(秘)現象

羽田空港は毎年1cm前後沈み続けている。羽田空港の大部分は東京湾の沖合を埋め立てた土地。超軟弱地盤の上で平坦を保っている。1982年、運輸省の研究職員だった福手勤さんは沖合拡張工事の調査・設計部門の現場責任者に抜擢された。95年前の開港から徐々にその面積を広げ、1982年当時は大小3本の滑走路を持つ空港だった。当時羽田沖に埋立地が完成、その土地を利用して空港を拡張しようという話が持ち上がった。高度経済成長期に入った頃から海外旅行の自由化とジャンボジェットの導入で日本は空の時代へ突入、羽田発着の便が急増した。だが、羽田の一部滑走路は大型機に対応できる長さがなかった。空路での貨物輸送も年々増加していた。

キーワード
グーグル国土地理院日本放送協会東京国際空港東京湾運輸省

工事計画は全ての滑走路を拡張された空港に移設し新たなターミナルビルも建設するというもの。A滑走路を移設する先にあったのは超軟弱地盤。まるで底なし沼だった。拡張前の羽田空港の敷地は江戸時代に干潟を埋め立てできたもので、埋め立てて時間も経っており極端に地盤が弱いわけではない。拡張予定の土地に使われたのは河川や河口付近に堆積していた泥。それを東京都が羽田沖へ運び埋め立てたものだった。泥の粒子は極めて細かく、水分を多量に含んでしるこのような状態。泥の水分を抜き地盤を改良するという超難題だった。地下約25mまでプラスティックでできた段ボールのような長い帯を押し込み、液体が細い隙間に吸い上げられる毛細管現象を利用して水を抜くことに。地下25mまで押し込むには専用の重機が必要。この試練に挑んだのは世界屈指の難工事と言われたスエズ運河拡張工事で砂漠地帯の崩れやすい足場で運河を広げる工事を行なった掘削のエキスパート集団。そんな彼らですら、これほどの軟弱地盤では無理難題だと感じてしまうほどだったという。

キーワード
スエズ運河日本放送協会東京国際空港東京都
vs底なし沼 羽田建設秘話

地盤の緩さから重機が転倒する事故が発生。さらに晴天が続くと泥の表面は乾き砂塵となって作業員の肌を削った。休憩のために作られた小屋にも泥臭さが充満した。3mの丸太を敷き重機を安定させるなど、経験を活かし苦難を克服した。ついに100万本ものペーパードレーンを設置することに成功した。最終的に1年半後、東京ドーム8杯分もの水を抜くことに成功したという。しかし滑走路の建設に際し、ある大問題が浮上した。重いジャンボジェットが時速200キロ以上で離着陸する滑走路には高速道路より平らな究極の平坦さが求められる。滑走路の舗装材の一部を搬入した時、その重さに耐えきれずさらに深層部から水がにじみ出してきたため凹凸が生じてしまった。ペーパー工法は泥の水分のような「完全に静止した水」には有効だが、深層部から染み出すわずかに動きのある水では吸い上げる力が負けてしまう。難題に挑むことになったのは舗装のエキスパート集団。

キーワード
日本放送協会東京国際空港

空港の地下道路を担当していた会社の技術者が滑走路を平坦にする方法を見つけた。先端に穴のついた鉄製パイプを埋め込み、ポンプの力で水を抜くという。部分的に水を抜くことに特化し、にじみ出してきた水分を短時間で抜くことができる。ついに最初の滑走路の移設が完了。最終的にはB滑走路とC滑走路も移設し、中央にターミナルを建設する予定だが、そこには最大の試練が待ち受けていた。

キーワード
東京国際空港

発着本数を増やすためにはターミナル棟、駐機場の増設が必要だった。駐機場には300t~400tもの機体が一定時間とどまるため、駐機場全体が沈下しやすいのはもちろん、長時間留まる場合部分的に沈下する可能性も高かった。水を抜く工事は現実的ではなかった。ターミナルビルに関しては地下50m~70mまで杭を打つことでその問題は解消できていた。福手の研究所時代の先輩が提案したのはジャッキアップ工法。局所的に沈んでしまった場合、その部分の表面のコンクリートだけを油圧式ジャッキで持ち上げ、地盤との隙間に充填材を注入し固定するというもの。ジャッキアップ工法は空港で行われた例はなかった。乗り越えなくてはならない課題は4つ。1つ目は広大な駐機場を持ち上げるため、数百基の油圧式ジャッキとその制御システム。2つ目は薄く強度の高いコンクリート。3つ目は隙間に注入してできるだけ早く固まる充填材。当時羽田では最終便が夜11時で次の日の始発便が朝5時と決まっていた。その間の6時間で終えられる工法でなければならなかった。福手はジャッキと制御システム、コンクリート、充填材の開発に成功した。充填材は2時間で固まるものをかいはつできたが、ジャッキの設置にはどうしても膨大な時間がかかってしまう。あらかじめジャッキ用の穴を開けておくことにした。1990年、試験用の駐機場で実験を5時間半でクリアした。1993年、駐機場とターミナルが完成した。その後、二つの滑走路も移設・延長された。1996年には初めてジャッキアップ工法での補修がされた。

キーワード
国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所日本放送協会東京国際空港橋本龍太郎石原慎太郎鈴木俊一

その後福手は世界初の完全海上空港となる関西国際空港の建設にも現場の施工管理の責任者として参加した。羽田空港は拡張工事のあとも新しい浮島型の滑走路や国際線ターミナルなど進化を続けている。これらの施設にもジャッキアップによる沈下対策が施されている。2011年の東日本大震災、羽田空港では大きな問題は起こらなかったという。福手勤さんは現在は東洋大学名誉教授として後進の育成にあたっている。羽田空港では大学の教え子が働いている。

キーワード
国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所東京国際空港東日本大震災東洋大学榎川崇蒲谷美里関西国際空港
立ち入り禁止 新エリア大潜入

今、地下を通して東京駅と羽田空港を繋ぐ新たな線路を建設中。羽田空港のちかにはJRの新駅も建設中。完成すれば東京~羽田空港間が18分で繋がる。軟弱地盤ゆえ、掘りながらトンネルを作る。その際、少しでも振動を抑え空港の運用に影響が出ないようにしているという。さらに今後、高速道路を挟んで経つ第1ターミナルと第2ターミナルを建物でつなぎ、そこに新しく国際線ターミナルを作る計画が進行中だという。

キーワード
グーグル国土交通省関東地方整備局 東京空港整備事務所日本空港ビルデング東京国際空港東京駅東日本旅客鉄道
極限の決断が生む奇跡
緊急事態 日本人船長の選択

宮城元勝さんはかつて沖縄水産高校の実習船「翔南丸」で船長を務めていた。1983年8月8日、翔南丸は南シナ海の海上にいた。定員75人の船には生徒・教員69人が乗船。無事に実習を終え、あとは沖縄に戻るだけだった。翔南丸の前に現れた難民船には多くのベトナム人が乗っていた。その中には当時14歳だった少年ジャンの姿もあった。当時世界は東西冷戦の真っ只中で、北ベトナムをソ連・中国が支援、南をアメリカが支援。冷戦時の代理戦争の構図となったのがベトナム戦争だった。1975年、北ベトナムの勝利で戦争が終結すると、南ベトナム出身のジャン一家の運命は一変した。父は逮捕され母は収容所に送られた。ジャンは祖父母に引き取られたが、どこに行くにも公安の許可が必要となり自由が奪われた。この状況から抜け出し少しでも未来を明るくするため、多くの人々が国外へ脱出した。

キーワード
クリエーション ファイブベトナムベトナム戦争ボートピープルユーリ・アンドロポフロナルド・レーガン南シナ海国際連合難民高等弁務官事務所宮城元勝沖縄タイムス社沖縄県沖縄県立沖縄水産高等学校翔南丸
(番組宣伝)
今夜のラインナップ

「ホンマでっか!?TV」「ラムネモンキー」の番組宣伝。

国民的マジックの祭典!世界が認めた日本人マジシャンNo.1決定戦

「国民的マジックの祭典!世界が認めた日本人マジシャンNo.1決定戦」の番組宣伝。

極限の決断が生む奇跡
緊急事態 日本人船長の選択

ジャンは単身船に乗り込んで漂流に未来を託した。初日から外国船が目の前に現れたが、見て見ぬふりをする船がほとんどだった。この当時、ベトナムを脱出するボートピープルは国際的な社会問題となっており、人道的支援を求める声は世界的に高まっていた。手を差し伸べれば受け入れ先までの支援が必要となり、輸送費などを含め莫大な予算と労力が救出した国の負担となる。そのため、ボートピープルの受け入れは一筋縄ではいかなかった。4日後、ついに食料が底をつき水もなくなってしまった。そんな時、停泊する船の灯りが見えた。ようやく船の近くにたどり着いた頃には朝になっていた。この時ジャンたちが見つけた船こそ宮城船長が乗る沖縄水産高校の実習船「翔南丸」だった。日本政府も1978年にボートピープルの支援を表明したものの、まだ支援場所などが数か所設置され始めた程度。受け入れには慎重な声も少なくなかったという。宮城船長は救助の道を選んだ。船の大きさから乗っているのは数人程度だと思っていたが、その数は105人だった。翔南丸の定員は75人で、すでに生徒・教員69人が乗船していた。全ての難民を船に移すと105人の様子を確認した。ジャンは高熱に侵されていた。宮城船長は沖縄県実習船運営事務所に連絡し、そこから外務省まで報告があがり、政府は乗船オーバーを理由に帰国を許さなかった。

キーワード
アジア福祉教育財団ベトナムボートピープルユニフォトプレスインターナショナル中日映画社外務省宮城元勝沖縄タイムス社沖縄県立沖縄水産高等学校翔南丸
1 - 2

© 2009-2026 WireAction, Inc. All Rights Reserved.