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「パウルスさん」 のテレビ露出情報

「百万本のバラ」の原曲は旧ソ連時代に生まれた子守唄。1981年に当時旧ソ連の構成国で現在バルト三国の1つであるラトビアで作られた「マーラが与えた人生」が原曲。作詞はブリエディスというソ連の反体制派の詩人。作曲はパウルスさんというソ連からの独立運動を指揮し、後にラトビア文化相になった人物。1982年、この曲にソ連の反体制派の詩人であるボズネセンスキーさんがロシア語の新たな歌詞を付けてできたのが「百万本のバラ」。この人物は後にゴルバチョフさんの右腕として改革に尽力することになる。加藤さんは「もともと「百万本のバラ」として歌い始めたときは子守唄が原曲だと知らなかった。そののち、この歌にはたくさん歴史があることを知って、ラトビアの原曲にもこだわって作詞した人にも会ったが、ソ連の古い抑圧の強い体制に抗って自分の表現をしていた人たちのことをさすが、ブリエディスが最初の子守唄に込めたのは「神様は子どもたちの命は運んでくるのに幸せは平等に運んでこない。どうして神様はそんな大事なことを忘れたのか」というリフレインのある子守唄。一方的な片思いにロシア語に翻訳したボズネセンスキーも体制に批判を持っていた人。本当ならこの曲はソ連では発売できないかと思われるほどの歌だが、当時80年代に入りソ連が変わろうとしていたときに発表されたので大ヒットソングになった。私は85年から歌い始めて86年にレコーディングしている。ラトビア語の曲は全ソ連の放送媒体で流せなかった。ロシア語に翻訳しないといけなかった。ゴルバチョフが東西の鉄のカーテンを開放しようという思いが込められたのが「百万本のバラ」だと私は思って歌ってきた。私はロシア語が少し分かるので、もう少しストーリー全部伝えられる日本語にしたらいいかもねと詩を作って個人的に歌っていた。ソ連は禁止された歌がものすごく多い国。ロシア民謡しか許されない時代があってポップスは自由に作れなかった時期もあった。だからたくさん迫害を受けながら曲が生まれ、歌い継がれてきたロシアの人々はなにがあっても歌は残した歴史がある。自由を求める中に特に音楽に込める気持ちは強い。」などと話した。
「百万本のバラ」の歌詞にはモデルがいるという。それが、ジョージア出身の画家、ニコ・ピロスマニだという。加藤さんはジョージア公演をコロナ禍などで3年間延期したが、去年10月に実現したという。「百万本のバラ」を聞いたジョージアの人たちの反応について、「深い意味をそんなに感じていない。はじめてこの歌を聞いたような気がすると言われて驚いた。」などと話した。加藤さんは1943年に旧満州のハルビンに3人きょうだいの末っ子として誕生した。ハルビンは1900年代初頭にロシア帝国によりつくられた街で、ロシア人やウクライナ人などが多く住んでいた。その後、終戦で日本へ帰国した。父・幸四郎さんは戦後日本に引き揚げ、新橋などにロシア料理店を開店し、日本にいたロシア人たちがあつまり交流の場になったという。加藤さんにとってロシア文化・ウクライナ文化はどういう存在なのか。「父はロシア文化を学習して音楽が大好きになって、ロシア大好き家族だったので、産湯とつかったという感じですかね。」などと話した。加藤さんは「キーウの場合も平和である日常のなかに、突然戦争という現実がぶち込まれたというか。そういう感じがその2年間しますよね。ウクライナの人たちは、今も戦場はあるんだけど、できるだけ自分の家を離れたくない気持ちで日常を過ごそうとしている。それがウクライナの人たちの気持ち。」などと話した。

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