昭和30年、会社を守ってきた母・トメが他界し25歳の章三郎が社長になった。売り上げが落ち込み資金繰りに苦しかった為、工場や家を全て売り払い岡山県・児島へ向かった。そこでミシン製造会社に雇ってもらい部品作りの仕事を始める。ミシン製造会社の山本尚邦さんは当時を振り返り実際に章三郎が作った「三つ巻き押さえ」を見せてくれた。「三つ巻き押さえ」は地域の縫製工場で人気となった。
昭和35年、章三郎は大阪に戻りミシンの部品を作る山中製作所を夫婦で新たに立ち上げた。章三郎が手がけたざまざなな「ルーパー」を紹介。章三郎の同級生の北浦愼三さんは、章三郎が当時からルーパーを持ち歩いていたことを振り返った。昭和37年に伸弥が生まれた。章三郎は本格的に製品の輸出に乗り出した。会社の税理士をしていた東岡英雄さんは「すべての世界を相手に、その機械を輸出したいんだというふうな意欲があったように思います」と語った。章三郎と取引があった高橋孝一さんは「山中さんはもういっぺんやり直しとか全部聞いてくれる。嫌というのを言わんの」と語った。
元従業員の本田正博さんは「怒られるときは、ぼろくそに怒られますねん。でもやっぱりそのあとのフォローがありますんでね。小さい会社ですけど誰も辞めんとずっと続いている」と話す。増える注文に人手不足となり章三郎は鹿児島に住む岩切光明さんを頼った。岩切さんにとって章三郎は恩人であったため、務めていた会社を辞め自宅近くに作業を建て部品を作ることにした。しかしその後、章三郎は糖尿病で入院してしまう。甥の平井裕治さんは章三郎は入院中も仕事のことばかり考えていたと話す。昭和63年11月に章三郎は58歳の若さで他界。工場を引き継いだ妻・美奈子。朝礼で美奈子は従業員に「いっぺんに1万個作るけど、そのミシンには1台に1個しかつかないから絶対に気を緩めることなくきちっと作ってください」と章三郎の信念を伝えていた。山中伸弥さんはVTRを振り返り「こういう経緯というのは本当にしらなかったですから、すごく大切なことを教えてもらっているような気がします」とコメントした。
昭和35年、章三郎は大阪に戻りミシンの部品を作る山中製作所を夫婦で新たに立ち上げた。章三郎が手がけたざまざなな「ルーパー」を紹介。章三郎の同級生の北浦愼三さんは、章三郎が当時からルーパーを持ち歩いていたことを振り返った。昭和37年に伸弥が生まれた。章三郎は本格的に製品の輸出に乗り出した。会社の税理士をしていた東岡英雄さんは「すべての世界を相手に、その機械を輸出したいんだというふうな意欲があったように思います」と語った。章三郎と取引があった高橋孝一さんは「山中さんはもういっぺんやり直しとか全部聞いてくれる。嫌というのを言わんの」と語った。
元従業員の本田正博さんは「怒られるときは、ぼろくそに怒られますねん。でもやっぱりそのあとのフォローがありますんでね。小さい会社ですけど誰も辞めんとずっと続いている」と話す。増える注文に人手不足となり章三郎は鹿児島に住む岩切光明さんを頼った。岩切さんにとって章三郎は恩人であったため、務めていた会社を辞め自宅近くに作業を建て部品を作ることにした。しかしその後、章三郎は糖尿病で入院してしまう。甥の平井裕治さんは章三郎は入院中も仕事のことばかり考えていたと話す。昭和63年11月に章三郎は58歳の若さで他界。工場を引き継いだ妻・美奈子。朝礼で美奈子は従業員に「いっぺんに1万個作るけど、そのミシンには1台に1個しかつかないから絶対に気を緩めることなくきちっと作ってください」と章三郎の信念を伝えていた。山中伸弥さんはVTRを振り返り「こういう経緯というのは本当にしらなかったですから、すごく大切なことを教えてもらっているような気がします」とコメントした。
