- 出演者
- 今田耕司 池田伸子 山中伸弥
ノーベル生理学・医学賞を受賞した山中伸弥は世界で初めてiPS細胞を作り出すことに成功した。これによって難病治療や新薬の開発が期待されている。今回はそんな山中伸弥のルーツを紐解く。
山中伸弥は自分のルーツについてはよく知らないという。祖父の前になるとほとんど何も知らないと語った。そこで最初は父方の山中家のルーツを探る。そこで山中伸弥の姉である伊藤由美子に話を聞いた。さらに浄國寺で調べると、200年前の先祖が同じ山中正宏さんと山中章浩さんに話を聞けた。祖父の時代には大阪新喜多町に住んでいたことがわかった。祖父の山中熊吉は技術者の道を歩んだ。そこで山中熊吉は山中製作所を起こしてミシンのトランスミッターを作っていたことがわかった。山中製作所のトランスミッターは評判が良かったという。しかし山中熊吉は昭和16年に46歳の若さで亡くなった。その後、太平洋戦争が勃発し、材料が手に入りにくくなり、そうした中で期待されいたのが跡取りの山中章三郎、後の山中伸弥の父親だ。終戦後、山中章三郎は同志社大学の理工学部に入学し、卒業後に実家の工場を手伝うようになった。そんな時に後の山中伸弥の母になる山中美奈子と出会った。スタジオでは山中伸弥が祖父について「僕とやっていることが一緒だと思った」と語った。
山中伸弥の母の山中美奈子は今年亡くなった。母方のルーツは九州だという。しかし実際には母方は兵庫県佐用町に住んでいたことがわかった。母方の祖父は溶接工だった。そして昭和6年に山中美奈子が生まれた。山中美奈子は何不自由ない生活をしていた。そして高等女学校に入学した。しかし太平洋戦争によって溶接工場は焼失してしまい、家族は必死で働いていた。それから農地開拓のために九州に移り住むことになった。そのため山中美奈子は学校を退学することになった。一家は自分たちで木を伐採して農業を開始した。しかしその後、銀行の求人があるという親戚の手紙が届き、山中美奈子は大阪で働くことになった。ただ実家の農地は接収されてしまい一家は鉄輪温泉に移り住んだ。そこで土産用の菓子の製造販売を開始した。
山中美奈子は家族のために懸命に仕送りをしていた。そうした状況の中で、職場の友達に誘われた集まりで山中章三郎と出会った。しかしこの頃、山中製作所の経営は厳しくなっていた。そして昭和30年に2人は結婚した。間もなく長女が生まれた。ただ生活は厳しい状況が続いてた。
昭和30年、会社を守ってきた母・トメが他界し25歳の章三郎が社長になった。売り上げが落ち込み資金繰りに苦しかった為、工場や家を全て売り払い岡山県・児島へ向かった。そこでミシン製造会社に雇ってもらい部品作りの仕事を始める。ミシン製造会社の山本尚邦さんは当時を振り返り実際に章三郎が作った「三つ巻き押さえ」を見せてくれた。「三つ巻き押さえ」は地域の縫製工場で人気となった。
昭和35年、章三郎は大阪に戻りミシンの部品を作る山中製作所を夫婦で新たに立ち上げた。章三郎が手がけたざまざなな「ルーパー」を紹介。章三郎の同級生の北浦愼三さんは、章三郎が当時からルーパーを持ち歩いていたことを振り返った。昭和37年に伸弥が生まれた。章三郎は本格的に製品の輸出に乗り出した。会社の税理士をしていた東岡英雄さんは「すべての世界を相手に、その機械を輸出したいんだというふうな意欲があったように思います」と語った。章三郎と取引があった高橋孝一さんは「山中さんはもういっぺんやり直しとか全部聞いてくれる。嫌というのを言わんの」と語った。
元従業員の本田正博さんは「怒られるときは、ぼろくそに怒られますねん。でもやっぱりそのあとのフォローがありますんでね。小さい会社ですけど誰も辞めんとずっと続いている」と話す。増える注文に人手不足となり章三郎は鹿児島に住む岩切光明さんを頼った。岩切さんにとって章三郎は恩人であったため、務めていた会社を辞め自宅近くに作業を建て部品を作ることにした。しかしその後、章三郎は糖尿病で入院してしまう。甥の平井裕治さんは章三郎は入院中も仕事のことばかり考えていたと話す。昭和63年11月に章三郎は58歳の若さで他界。工場を引き継いだ妻・美奈子。朝礼で美奈子は従業員に「いっぺんに1万個作るけど、そのミシンには1台に1個しかつかないから絶対に気を緩めることなくきちっと作ってください」と章三郎の信念を伝えていた。山中伸弥さんはVTRを振り返り「こういう経緯というのは本当にしらなかったですから、すごく大切なことを教えてもらっているような気がします」とコメントした。
町工場を経営していた父・章三郎さん。伸弥さんには工場を継がせる気は無かった。今年6月に86歳で亡くなった母・美奈子さんが大切にしていた山中伸弥さんが大学に合格した時の新聞や医師の国家試験に合格した時の写真などを紹介。山中伸弥さんは大学卒業後に整形外科医になったものの研究者への道を選ぶ。平成11年に「奈良先端科学技術大学院大学」の助教授に就任し、平成19年にヒトのiPS細胞の作製に成功する。平成24年にノーベル賞を受賞。受賞式には母・美奈子さんも同行していた。帰国後、美奈子さんはメダルを象ったチョコレートをお世話になった人々に配った。山中伸弥さんはVTRを振り返り「全然知らなかったですのでびっくりしました」と涙ながらに語った。
ファミリーヒストリーの次回予告。
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