岸・安倍三代と統一教会“組織的関係”の原点。岸信介氏の総理就任は1957年だった。TBSには在任中の総理を追った貴重な映像が残っている。そこには孫・安倍晋三氏も。娘婿・安倍晋太郎氏と晋三氏が遊んでいるのは渋谷区南平台にあった岸氏の邸宅。この時期、日本の領域内で日米の共同防衛を可能にすることを目指していた岸総理。1960年には日米安保条約の改定に取り組んだ。これに反発した人々は大規模なデモで安保反対を叫ぶ。デモ隊は、岸総理の邸宅にも押し寄せた。反共を掲げる岸総理はデモを主導する左翼の人々へ嫌悪を回顧録に綴っている。新安保条約が成立すると岸内閣は退陣。岸氏は南平台に2軒並んでいた邸宅の1つを手放す。1964年、そこに移転してきたのが統一教会・日本本部だった。岸氏や孫・晋三氏らが遊んでいたあの庭で信者がランニングや体操にいそしむ姿があった。その後、急速に接近した教祖・ムン氏と岸氏。2人の間をなぜ笹川良一氏(右翼のドンと言われた政財界のフィクサー、全国モーターボート競争会連合会会長)が取り持つことができたのか?。笹川氏と岸氏は戦後、A級戦犯の容疑で共に巣鴨プリズンに収監されていた。それ以来、親交があった。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長によれば、笹川氏は岸元総理に“是非、見守ってもらいたい、あるいは時には協力してもらいたいと、それで岸先生が南平台の教会の本部を訪ねるようになったというのが最初”と語ったという。勝共連合の勝共とは共産主義に打ち勝つこと。統一教会は60年代半ばから勝共運動を世界に広め始める。ムン氏が日本での拠点を作るべく笹川氏と会合を持ったのが、 あの本栖湖の施設だった。今もそのままに残る第3特別室で笹川氏とムン氏が日本における勝共運動の推進を誓った。翌年、政治団体「国際勝共連合」が創設された。発起人の1人が岸元総理、笹川氏は名誉会長だった。教団側に残されていた写真からは笹川氏や岸氏が積極的に活動に参加していたことが見て取れる。1970年には、韓国が中心となって世界の様々な反共団体を組織した世界反共連盟・WACLの大会が日本武道館で開かれた。これを取りしきったのも勝共連合。演説を目の当たりにした元米国統一教会元幹部・アレンウッドさんの記憶は今も鮮やか。教団が掲げる反共の理念に賛同の意を表明した政治家が福田赳夫氏。福田氏や安倍晋太郎氏の番記者だった秋山光人さんは「福田氏が総裁選で田中角栄氏に敗北を喫したことが宗教団体の票を頼るようになった背景にある」と指摘する。統一教会の大きな転機は1978年の京都府知事選だった。政治家の信頼を勝ち取るべく、勝共連合が選挙支援に乗り出した。28年続いていた共産党の地盤に全国の信者が集結。自民党が推薦する候補を応援した。信者は共産党を攻撃するビラを大量にまいた。その結果、共産党候補は落選。勝共連合の組織力、集票力が政界に知れ渡り、爆発的な力を見せたのが1986年の衆参ダブル選挙だった。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長に話を聞く。自民党と勝共連合は支援する候補者や手法まで協議していたという。衆議院では300議席を獲得し、自民党圧勝に終わった選挙。勝共連合は支援で130人を当選させたと機関誌で喧伝。政界とのパイプが新たな信者の獲得にも利用された。