2024年12月29日放送 9:54 - 16:30 TBS

報道の日
2024 TBSテレビ報道70年〜8つの禁断ニュース

出演者
中田敦彦 膳場貴子 井上貴博 後藤謙次 井上咲楽 小泉悠 浜田敬子 
(オープニング)
テレビ報道70年 8つの禁断ニュース

テレビ報道70年8つの禁断ニュース。

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ベトナム戦争
オープニング

オープニング映像。

午後4時半まで生放送

スタジオには8枚のパネルが並んでいる。

テレビ報道70年 8つの禁断ニュース
教団側の現役幹部が初証言 岸・安倍三代と統一教会

禁断1:1959年「統一教会日本進出」。おととしの安倍元総理銃撃事件をきっかけに自民党と旧統一教会との深いつながりが明らかになった。その原点はどこにあったのか?。安倍3代と教団の知られざる関係を教団側の現役幹部が語った。2024年9月17日付の朝日新聞が、安倍晋三総理と統一教会・徳野英治会長らが2013年の参院選直前に自民党本部で面会していたことを報じた。この場に同席していた旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長は“教団側と自民党の関係性について真実を知ってほしい”と初めて取材に応じた。2013年の参議院選挙において全国比例で特定の候補、北村経夫さんを応援しようという動きになった経緯。その時の安倍総理の反応について。しかし自民党は一貫して教団との組織的な関係はなかったと主張してきたが、渡邊氏は“今まで組織的なつながりを持ったことがないなんて言えないと思いますよ”と述べた。きっかけは今から60年ほど前、山梨・本栖湖の湖畔で統一教会教祖・ムンソンミョン氏と右翼のドンと言われた笹川良一氏がある合意に至った。笹川氏は戦後を代表する政財界のフィクサーで、全国モーターボート競争会連合会の会長でもあった。会場になったボートレーサーの養成施設は今も当時のまま。そこに招かれたムン氏は笹川氏の協力のもと、国際勝共連合の立ち上げを決定。笹川氏がメディアからタブー視されていたこともあり、統一教会との関係は殆ど報じられなかった。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長が教団側と自民党の関係性について初めて取材に応じた。朝鮮半島を分断した戦争の記憶もまだ生々しい時期。1954年、統一教会が韓国で創立された背景には共産党主義勢力への対抗という側面もあった。山梨・本栖湖での会談から遡ること8年、教団は日本に進出。その後すぐ、笹川良一氏(右翼のドンと言われた政財界のフィクサー、全国モーターボート競争会連合会会長)の人脈を介して統一教会・文鮮明氏は反共思想の持ち主、岸信介氏に接近する。以来、娘婿から孫の安倍晋三氏へ。関係はあの銃撃事件によって注目されるまでベールに包まれていた。半世紀余り、三代にわたる政治家一家と統一教会の絆を紐解く。

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世界平和統一家庭連合
原点は反共と“右翼のドン” 岸・安倍三代と統一教会

岸・安倍三代と統一教会“組織的関係”の原点。岸信介氏の総理就任は1957年だった。TBSには在任中の総理を追った貴重な映像が残っている。そこには孫・安倍晋三氏も。娘婿・安倍晋太郎氏と晋三氏が遊んでいるのは渋谷区南平台にあった岸氏の邸宅。この時期、日本の領域内で日米の共同防衛を可能にすることを目指していた岸総理。1960年には日米安保条約の改定に取り組んだ。これに反発した人々は大規模なデモで安保反対を叫ぶ。デモ隊は、岸総理の邸宅にも押し寄せた。反共を掲げる岸総理はデモを主導する左翼の人々へ嫌悪を回顧録に綴っている。新安保条約が成立すると岸内閣は退陣。岸氏は南平台に2軒並んでいた邸宅の1つを手放す。1964年、そこに移転してきたのが統一教会・日本本部だった。岸氏や孫・晋三氏らが遊んでいたあの庭で信者がランニングや体操にいそしむ姿があった。その後、急速に接近した教祖・ムン氏と岸氏。2人の間をなぜ笹川良一氏(右翼のドンと言われた政財界のフィクサー、全国モーターボート競争会連合会会長)が取り持つことができたのか?。笹川氏と岸氏は戦後、A級戦犯の容疑で共に巣鴨プリズンに収監されていた。それ以来、親交があった。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長によれば、笹川氏は岸元総理に“是非、見守ってもらいたい、あるいは時には協力してもらいたいと、それで岸先生が南平台の教会の本部を訪ねるようになったというのが最初”と語ったという。勝共連合の勝共とは共産主義に打ち勝つこと。統一教会は60年代半ばから勝共運動を世界に広め始める。ムン氏が日本での拠点を作るべく笹川氏と会合を持ったのが、 あの本栖湖の施設だった。今もそのままに残る第3特別室で笹川氏とムン氏が日本における勝共運動の推進を誓った。翌年、政治団体「国際勝共連合」が創設された。発起人の1人が岸元総理、笹川氏は名誉会長だった。教団側に残されていた写真からは笹川氏や岸氏が積極的に活動に参加していたことが見て取れる。1970年には、韓国が中心となって世界の様々な反共団体を組織した世界反共連盟・WACLの大会が日本武道館で開かれた。これを取りしきったのも勝共連合。演説を目の当たりにした元米国統一教会元幹部・アレンウッドさんの記憶は今も鮮やか。教団が掲げる反共の理念に賛同の意を表明した政治家が福田赳夫氏。福田氏や安倍晋太郎氏の番記者だった秋山光人さんは「福田氏が総裁選で田中角栄氏に敗北を喫したことが宗教団体の票を頼るようになった背景にある」と指摘する。統一教会の大きな転機は1978年の京都府知事選だった。政治家の信頼を勝ち取るべく、勝共連合が選挙支援に乗り出した。28年続いていた共産党の地盤に全国の信者が集結。自民党が推薦する候補を応援した。信者は共産党を攻撃するビラを大量にまいた。その結果、共産党候補は落選。勝共連合の組織力、集票力が政界に知れ渡り、爆発的な力を見せたのが1986年の衆参ダブル選挙だった。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長に話を聞く。自民党と勝共連合は支援する候補者や手法まで協議していたという。衆議院では300議席を獲得し、自民党圧勝に終わった選挙。勝共連合は支援で130人を当選させたと機関誌で喧伝。政界とのパイプが新たな信者の獲得にも利用された。

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世界平和統一家庭連合
安倍派の選挙支えた“宗教票” 岸・安倍三代と統一教会

岸・安倍三代と統一教会“組織的関係”の原点。1986年、統一教会と自民党の関係は更に深まる。岸、福田両元総理に連なる派閥の会長に安倍晋太郎氏が立ち、ここに安倍派が生まれた。教団側とのパイプも晋太郎氏に引き継がれる。1958年に初当選した晋太郎氏には落選の経験が1度だけあった。その落胆ぶりを知るのは安倍家と近しい元共同通信・野上忠興さん。1987年に行われた総裁選では竹下登氏、宮澤喜一氏と争うが、現職の総裁が次期総裁を指名する中曽根裁定で政権は竹下氏に。身をもって選挙の厳しさを感じた晋太郎氏は、より一層、教団側と接近していった。勝共連合の会合で選挙支援のお礼を堂々と述べている。ところが1990年代に入り、合同結婚式の異様さや霊感商法の悪質な実態が報じられ社会問題化した。議員のほとんどは表面上、教団と距離を置くようになる。晋太郎氏が世を去ると、岸元総理から続いたパイプも消滅するかに見えたが、父の死から2年、地盤を引き継いだ晋三氏が初当選する。晋三氏の胸には安保反対の声と戦い、新安保条約の締結を成し遂げた祖父の姿が焼きついていた。著書「美しい国へ」にも綴られた言葉を紹介。高校時代は安保に反対する教師に対して毅然と胸を張ったことも。保守を貫いた祖父を敬い、数の正義を信じた父に学んだ晋三氏。教団側との関係を引き継ぐのは当然の成り行きでした。官房長官時代、教団関連団体のイベントに祝電を送った記録(提供:鈴木エイト氏)も残っている。2006年に総理に就任したが体調を崩し1年で退陣。けれど5年後に返り咲く。2013年1月14日放送・TBSラジオ「政策情報 官邸発」の安倍氏の音声。祖父の遺志を受け継ぐ覚悟だった。最初の参院選に向け、統一教会幹部との面会で選挙支援について話し合った(2024年9月18日付・朝日新聞)。

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世界基督教統一神霊協会
銃撃事件で絶たれた蜜月関係 岸・安倍三代と統一教会

岸・安倍三代と統一教会“組織的関係”の原点。2013年、統一教会からの選挙支援を確認したという安倍晋三総理。総理就任後、初の参院選だった。飽くなき執念があったという。政治ジャーナリスト・秋山光人さんは“晋三氏は3期目も視野に入れていたと思う”と話す。統一教会と岸、安倍3代の半世紀を超える結び付き。その延長に描いた晋三氏の野望。それを阻んだのが教団関連団体のイベントで流されたYouTubeの映像。教祖ムンソンミョン氏の妻にして教団のトップ、ハンハクチャ氏を称える安倍元総理の言葉が信者の息子を凶行に駆り立てた。2022年7月8日、安倍元総理が銃撃された。事件をきっかけに初めて大手メディアは教団と政治家との結び付きを取材し、批判的に報道。長年にわたり、教団からの支援を受けてきた自民党は、ついに統一教会との関係断絶を宣言した。旧統一教会の政治団体「国際勝共連合」・渡邊芳雄副会長は、早く関係断絶宣言を解除してもらいたいという思いは常に持っているという。解散命令は出されるのか?。一方で支援を受けた政治家たちは貝のように沈黙したまま。

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世界基督教統一神霊協会
岸・安倍三代と統一教会

第2次・安倍政権で教団との距離を近付けているように見えることについて、ジャーナリスト・後藤謙次さんのスタジオ解説。第1次安倍政権の時に安倍氏は参議院選挙で大敗して、体も壊して退陣していく。その時に選挙の大切さを非常に感じて、とりわけ安倍派、岸田派が続いて、それまで業界団体は田中派と竹下派流れ、経済界は岸田氏の宏池会と色分けができている中で人手がなかったのが安倍派。そこに宗教団体という塊を頼ったということが言える。安倍氏の戦略は、選挙を頻繁に繰り返すことによって政権を強くし維持していく。選挙を頻繁にするためには当然、体力、組織力が必要。岸田前総理が最後に「旧統一教会との関係を断つ」と宣言したが自民党に本当にそれができるのか?。教団側の幹部は「早く関係断絶宣言を解除してもらいたい」と口にしていことについて。総裁選では党員票が極めて大きな割合を占める。つまり高市さんがあれだけ党員票でトップにいくようなことは我々も含めてほとんど想定していなかった。ただこの党員票はどれだけ多く組織票を抱えるかということにも繋がるので、旧統一教会系あるいはその他の宗教団体がその党員を使って日本の総理大臣誕生に深く関与するという可能性が出てくるので、自民党はノーだ言っても、そういう形で関与された場合に、それを阻止できるかどうか。つまり総裁選の在り方そのものを考えないと今回の旧統一教会に限らず、大きな組織票が日本の内閣総理大臣を作ってしまう、このシステムをやはり変える必要がある。客観的なルール作りをしないと第2、第3の統一教会が生まれてしまう、同じことがまた繰り返されないかについて。自民党がいま企業団体献金にこだわっているのは、人手を確保するための金が必要だということ。

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安倍晋三
カメラが見た1950年代

1950年代、当時世界一高い東京タワーが完成。AIでカラー化。焼け野原から復活し、人口も増え、団地などが建ち並ぶ一方で占領下の名残も。銀座では看板が英語表記だったり、横浜では外国人男性の靴を磨く女性も。まだ貧しく小学校には靴がないので裸足で運動する子や教科書を変えない児童もいた。楽しみは安上がりな紙芝居やベーゴマだったが、小銭を握りしめて向かう「テレビ」が新しい娯楽の誕生だった。

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日本電波塔
カメラが見た1960年代

1960年代、東京オリンピックが開催され、日本は本格的に社会へ復帰。カラーテレビはぜいたく品でオリンピック見たさに店頭には人だかりが。高度経済成長が本格化し、GDPは米国に次ぐ第2位に。休日を楽しむ余裕も生まれ、神奈川・江ノ島の1日で約50万人が訪れた海水浴場には迷子が1日約100人。所得も増え、レジャーと言う言葉が定着したのもこの頃。車が普及し都市部の大気汚染が深刻化。酸素自動販売機は50円(現在で約200円)を入れると、1分間で3リットルの酸素が吸入可。安保闘争、学生らは連日デモを送り広げるもかなわず。強硬姿勢に批判が集まり、岸内閣は退陣。

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東京オリンピック
「カラーテレビ売り場」時代を象徴する一枚

カラーテレビ売り場の写真を紹介。今の貨幣価値だと大体50万円〜60万円ほど。1968年の年間視聴率ランキングトップの番組は、「紅白歌合戦」76.9%。白黒テレビは今の貨幣価値で10万円ほど。

ベトナム報道に政権の圧力 日本初のキャスター降板

東京・銀座では“報道の自由を守ろう”というビラが配られた。狙われたのは1人のニュースキャスター。田英雄は日本のニュース番組に初めて登場したキャスター。自身の意見を口にするニュースキャスターは時の政権から圧力を受けた。ベトナム戦争は南ベトナムを支援する米国と、北ベトナムを支援するソ連、中国との代理戦争で米国による攻撃は北爆と呼ばれた。戦闘は市民を巻き込み痛ましい映像も報じられる。佐藤栄作総理は日本と同盟関係にある米国の北爆を支持。沖縄は米国塀を戦争に送り出す前線基地。そうした現実が日本国内に反戦運動を巻き起こす。新宿西口広場には毎週末フォークゲリラと呼ばれる若者たちが集まり反戦歌を歌った。田英雄は西側のテレビ局として初めて北ベトナムの首都ハノイを取材。この放送が自民党の逆鱗に触れた。TBSの今道潤三社長は強く反論したという。過激になっていた反戦運動は南ベトナムを含む東南アジア歴訪に出発する佐藤総理を阻止するためデモ隊と機動隊が衝突。学生1人が死亡。

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ベトナム戦争
「放送免許の停止も…」 日本初のキャスター降板

ベトナム反戦運動と同じころに起きた成田闘争。成田空港建設を巡って地元の農民らと新左翼が参加し激化した反対運動。取材していたTBSのスタッフが反対は農民と彼らが持ち込んだプラカードをロケ車両に乗せ移動したことが問題に。この頃、東京・飯田橋でプラカードで警官を殴った学生に初めて凶器準備集合罪が初めて適用。1968年3月27日、日本初のニュースキャスター降板。交番から4日後、米国ジョンソン大統領が北爆の部分停止を発表。首都・サイゴンの陥落でベトナム戦争が終結するのは7年後の1975年。

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成田闘争
メディアへの政権の圧力

メディアへの政権の圧力についてコメンテーターは「狡猾的で巧みなメディア操作がある」と話した。

カメラが見た1970年代

1970年代、本土復帰直前の沖縄では通貨が「ドル」から「円」に代わるため540億円分の現金が本土から移送。円での対応で大混乱。日中国交正常化の友好の証としてやって来たパンダ。東京・上野は空前のパンダブーム。対面時間約40秒。その2年後、上野にモナリザが貸し出された。フランスとの間でウラン調達を決定した見返りだった。2か月で約150万人が訪れた。学生運動が激化していた時代、特に過激だったのが赤軍派と呼ばれた組織。よど号をハイジャックするなど数々の重大テロ事件を引き起こし国際的な問題に。開催中だった日本万国博覧会の太陽の塔の目玉部分を占拠。ヘルメットには赤軍の文字。会場の一部が立ち入り禁止になるも、太陽の塔の作者岡本太郎氏は笑っていた。男は万博中止を訴え8日間の籠城。赤軍派とは無関係のお騒がせ男だった。

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よど号ハイジャック事件
「マクドナルド1号店」時代を象徴する一枚

マクドナルド1号店の写真を紹介。銀座4丁目三越の1階にマクドナルド1号店がオープン。大勢のマスコミが押しかけ取材合戦。テイクアウトのみだったため、外で食べる人たちに興味を持たれていた。

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マクドナルド
54年前の大阪万博秘蔵映像 “令和の万博”成功のカギは?

大阪万博の開会式は全民放が初めて同じ番組を3時間放送。大阪万博が開幕したのは54年前の3月。大阪万博ではワイヤレステレフォンの体験や、人間洗濯機など最新技術がずらり。最大の目玉は米国からの「月の石」。海外グルメも大集結。タイからは16頭の象が来日。国や企業が個性を競ったパビリオン116。太陽の塔の地下では世界中から仮面と神々の像を集めた一大展示。展示成功のカギに“万国博を考える会”という市民団体の尽力があった。展示の人気に加え、海外旅行が一般的でなかったことから、開催費用増加も想定以上の約6400万人が来場。194億円超の黒字だった。

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日本万国博覧会

2005年に開催された愛・地球博。目玉は800万人がみた冷凍マンモス。マンモスを発見できる確率は20%と言われていたが目玉展示にしようとロシアへの調査団派遣にかけた。一方で目標入場者数を下方修正、会場を縮小し約360億円削減。約130億円の黒字となった。

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2005年日本国際博覧会
開幕まであと4か月… “令和の万博”成功のカギは?

来年の大阪・関西万博。建設費は2350億円と当初の1.9倍に膨れ上がった。目玉とされた空飛ぶクルマはデモフライトのみで来場者は乗れず。新たな目玉として火星の石を発表するも前売り券の販売は目標の半分ほどとなっている。

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2025年日本国際博覧会
“令和の万博”成功のカギは?

大阪・関西万博は来年4月13日に開幕するが、入場料は7500円(大人・1日券)。1970年の大阪万博では800円(現在の約2700円に相当)だった。後藤健二は大阪・関西万博の見通しについて「私は非常に厳しいと思う」などとコメントした。

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2025年日本国際博覧会
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