- 出演者
- 中田敦彦 膳場貴子 井上貴博 後藤謙次 井上咲楽 小泉悠 浜田敬子
1972年2月、武器を手にあさま山荘に立てこもった連合赤軍の5人。人質は管理人の妻。10日間の攻防で警察官2人と民間人1人が死亡。27人が負傷。生中継の最高視聴率は89.7%。
あさま山荘事件で、後藤健二は担当したニュース番組で逮捕された未成年の兄弟の弟にインタビューしたことがあるという。その人物は毛沢東思想を心酔しており、山荘の中でニクソン大統領の訪中というニュースを聞き、中国とアメリカが手を結ぶとはどういうことなんだ、自分たちのやっていることと現実で起きている世界の情勢にギャップを感じていたと話していたという。
中田敦彦のYouTube大学の登録者数は542万人、総再生回数は約16億回。過去のニュースがその後どんな影響を及ぼしたのか、テレビで徹底解説する。
中田敦彦が「学生運動の挫折→サブカル」について解説。学生が政治離れを起こしたのは、大きな理由として経済的な意味がなくなったことがある。国民が豊かになったことで学生の不満・国民の不満を政府に訴えかけるような学生運動、反政府運動のエネルギーが失われていくことになった。そのエネルギーは趣味の世界が広がっていった。これがサブカルの成長につながったとされている。
自らを「田中角栄氏の最後の弟子」と呼ぶ石破茂総理がスタジオに登場。1972年9月、北京に降り立った田中氏。総理就任から2か月半後の事だった。彼が成し遂げた日中国交正常化は世界を驚かせる。金権政治が糾弾され、総理の座を追われた田中氏に代わり、三木武夫氏は政界浄化を目指した。
1972年、自由民主党内では佐藤栄作総理の後継をめぐる駆け引きが始まっていた。有力視されたのは福田赳夫氏と田中角栄氏だった。当時、日本が外交関係を結んでいたのは中国ではなく台湾。そんな中、1972年2月、アメリカのニクソン大統領が電撃訪中。国際情勢は激変。三木武夫氏は日中国交正常化こそ総裁選の争点になるとにらんだ。
三木武夫氏と周恩来首相の会談。三木自筆の資料にはポスト佐藤の行方が書かれていた。周首相は福田内閣誕生を警戒していた。やがて総裁選が本格化。中曽根康弘氏が田中角栄氏支持に回ったことで政権を巡る争いに変化が生じる。1972年、三木派、田中派、大平派が3派連合を結成。日中国交正常化を条件として、仮に決選投票となったとき福田赳夫氏を退けるよう包囲網を張った。結果、田中氏が総理に就任。総理就任後初の会見で田中角栄は「日中両国が正常な状態になることが望ましい」と述べた。しかし、田中内閣の支持率は2年間で50ポイントも急落。その後に噴出した金脈問題により、田中内閣は総辞職に追い込まれた。
最大派閥を率いる田中角栄氏から総理を引き継いだ三木武夫総理がまっさきに取り組んだのが政治資金規正法の改正だった。ところが、改正法案の成立を急ぐあまり、他の重要法案を廃案に追い込んでしまったことで、党内からの突き上げを受ける。しかも、1976年2月に発生したロッキード事件。中心人物だった田中前総理が外国為替管理法違反の疑いで逮捕された。その後、自民党は結党後初の過半数割れとなった。
田中角栄氏を師と仰ぐ石破茂総理。石破総理は自身のことを「三木武夫氏に重なるんじゃないか」などと話した。また、訪中について「日本の総理大臣が中国に行くのは極めて大事なこと。一方で、角栄先生もそうであったようにアメリカとの関係も重視していかなくてはいけない」などと話した。
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ドジャース・大谷翔平が妻・真美子さんの第一子妊娠を公表した。
佳子さまが30歳の誕生日を迎え、天皇皇后両陛下に挨拶された。その後、仙洞御所を訪れ、上皇ご夫妻にも挨拶される。
全国の気象情報を伝えた。
ここからはスタジオにジャーナリストの浜田敬子が加わる。
1980年代、マンハッタンの真ん中でテレビカメラが捉えた看板はほとんどが日本企業でジャパン・アズ・ナンバーワンの時代。日本企業は注目の的。イギリスではソニーのテレビ工場をダイアナ妃が視察。自動車大国アメリカでは日本車との競争に負けたメーカーが次々と工場を閉鎖。ジャパンバッシングも吹き荒れた。時まさにバブル景気。超売り手市場でもあった。
1989年、時代は平成に。ベルリンの壁崩壊し、冷戦が終結を迎えた。
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1980年代を象徴する写真・リゲインを紹介。リゲインの広告には「24時間、戦エマスカ。」の文字。スタジオメンバーの中では井上咲楽だけピンと来ていない様子だった。
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民主化のリーダーであるベニグノ・アキノ暗殺事件の映像を紹介。1980年代、マルコス大統領の独裁政権に国民が不満を募らせていたフィリピン。失業率の上昇をよそに、大統領夫妻は贅沢の限りを尽くしていた。民主化のリーダーであったベニグノ・アキノ氏は危険人物とみなされ、アメリカに亡命。しかし1983年、アキノ氏は本国の大統領選に出馬をすべく帰国を決意。帰国した飛行機のタラップを降りたった直後に暗殺された。フィリピン当局はタラップを降りた先に隠れていた青いシャツの男を犯人と断定しその場で射殺。しかし、暗殺現場に居合わせたTBS生記者は疑念を抱いた。撮影したリアルな映像を精査すると、撃ったのはアキノ氏を連行しアキノ氏の背後にいた兵士であることが分かった。フィリピンにも出回った番組の録画テープは真相究明委員会の場で極めて重要な資料だとされた。アキノ氏は、いつ、どこで撃たれたのか。委員会は実際の現場で検証実験を行う。最初の銃声はタラップを降り始めて8.5秒後。実験では青いシャツの男は犯人に仕立て上げられたことが分かる。
民主化のリーダー・ベニグノアキノ暗殺事件。アキノ氏の暗殺事件が起きたとき、外交官としてマニラに駐在していた元在フィリピン日本大使館・政務班長・山本忠通さんは真相究明委員会のメンバーから事件の背景を聞かされたそうだ。3年後、アキノ氏暗殺に軍が関与していたことが明るみに出ると反マルコスを叫ぶ民衆運動が頂点に達する。マルコス大統領と夫人は米国に亡命。ハワイに逃れ、およそ20年の独裁政権が幕を閉じた。新たに大統領に就任したのはアキノ氏の妻コラソン氏。夫の遺志を継いで民主化を実現させたが、それから36年。2022年、独裁政権で失脚したマルコス氏の長男が新大統領に選出された。YouTubeチャンネルを通じて支持を集めたマルコスジュニア。選挙戦では、両親の時代を美化しその功績を発信した。テレビの力で政権を追われた父。その息子は、SNSの力で政権の座についた。