三木武夫氏と周恩来首相の会談。三木自筆の資料にはポスト佐藤の行方が書かれていた。周首相は福田内閣誕生を警戒していた。やがて総裁選が本格化。中曽根康弘氏が田中角栄氏支持に回ったことで政権を巡る争いに変化が生じる。1972年、三木派、田中派、大平派が3派連合を結成。日中国交正常化を条件として、仮に決選投票となったとき福田赳夫氏を退けるよう包囲網を張った。結果、田中氏が総理に就任。総理就任後初の会見で田中角栄は「日中両国が正常な状態になることが望ましい」と述べた。しかし、田中内閣の支持率は2年間で50ポイントも急落。その後に噴出した金脈問題により、田中内閣は総辞職に追い込まれた。