プロジェクトが順調に進んでいた1992年1月、女性社員による試乗会。「フレームの位置が高くて乗りづらい」など苦情が噴出した。バッテリーを内蔵したフレームが巨大化、またぎづらくなっていた。しかし設計は決定済み、誰もが「もう変えられない」と思っていた。藤田は設計担当、明田のもとへ向かった。明田久稔は頭を抱えた。明田は試行錯誤の末、バッテリーをサドルの下に置くことにした。これにより車体設計は一から見直すことになった。お年寄りや体力がない人、誰が乗っても安全で気持ちいい、そんな乗り物にするために小山たちの実験走行は続いた。「売れるのか」という疑念は藤田にもあった。見た目は自転車だがハイテクを搭載するため価格はオートバイ並み。菅野が生み小山が育てチームで作り上げたこの自転車がこのままでは届けたい人に届かない。藤田は思い切った策を考えた。本部長の長谷川を前に「特許は独占しない」と宣言。さまざまな企業が参入し価格も下がれば必要とする人にきっと届く。だがそれは会社としての利益は優先しないことを意味した。向かった先は自転車業界最大手ブリヂストン。自転車の圧倒的な量産ライン、そしてノウハウがあった。長谷川は言った「世のため人のためどうか力を貸して下さい」。1993年、ヤマハはブリヂストンの協力を得て電動アシスト自転車を生産、テスト販売した。反響は大きく1000台の予定が3000台売れた。翌年の全国販売でも予定の3倍となる3万台が完売、大ヒットとなった。藤田たちを何より喜ばせたもの、それは購入した人からの「おじいさんのお墓は坂が続く丘の上にあり登ることが出来なかった。この自転車を買ってから、毎日おじいさんに会えるようになりました」という手紙だった。「おもちゃに毛が生えたようなもの」と笑われた自転車は人々の暮らしを変えていた。プロジェクトメンバーで開いた祝勝会、めったに笑わない室長、藤田の笑顔がそこにあった。