- 出演者
- 有馬嘉男 森花子 藤田武男 小山裕之
暮らしを劇的に変えた乗り物が電動アシスト自転車だった。電動アシスト自転車は年間約80万台が販売されている。この乗り物が誕生するまでには99%無理という逆風に抗い立ち向かった開発者たちの知られざる戦いがあった。
オープニング映像。
今回は日本が生んだ世界初の乗り物「電動アシスト自転車」の開発物語。ペダルを漕ぐとその動きを中に組み込まれているセンサーが感知。バッテリーから電力が供給されモーターが回転し漕ぐ人の力をアシスト仕組み。
80年代初め、オートバイの市場をめぐって2つの企業が熾烈な競争を繰り広げていた。静岡県を発祥とするHとY。1位を独走するホンダに万年2位のヤマハが仕掛けた。八千草薫をCMに起用しスカートでも乗れるスクーターを発売したところこれが大ヒット。勢いに乗るヤマハは生産を拡大、1位を狙った。ところが過剰生産で在庫を抱え350億円の赤字に転落。HY戦争は敗北に終わった。巻き返しを図るべくヤマハが立ち上げたのが事業開発室。使命は「新たな事業を生み出すこと」。事業開発本部長には長谷川武彦。名車トヨタ2000GTの共同開発に携わり「ヤマハに長谷川あり」と言われたカリスマ。その長谷川が事業開発室長に任命したのが藤田武男。手柄は語らず笑顔すらめったに見せない実直な男。アイデアを出してきた男が菅野信之だった。菅野は天才的な発想の持ち主だが「変わり者」と言われていた。フィットネスブームの中で面白い自転車を思いついたが室長の藤田は似た乗り物が既に発売されていることを知っていた。漕がずともエンジンだけで走ったため「原動機付き自転車」に区分され運転免許が必要となり普及しなかった。しかし本部長長谷川の反応は違っていた。「これは風の強い中買い物に行く人が坂を上ったりする時きっと役に立つ」。「感動を届けてこそ」HY戦争を経た長谷川の考えだった。
1989年4月、菅野は試作に着手。目指したのはモーターが漕ぐ人をアシストしてくれる自転車。ちょうどいいモーターを探すうち菅野はひらめいた。パワステのモーターを入手し中古の自転車に取り付け始めた。事業開発室で製品化にたどりつけるのは1000に3つあるかないか。菅野はこれまで事業を成功させたことが一度もなかった。着想から1年、試作車が完成。気がかりは室長藤田の反応。藤田もまた感動に胸弾ませていた。しかしその矢先、発案者の菅野は新しいことをやりたいと唐突に離脱した。進み始めたプロジェクトにいきなり暗雲が立ちこめた。
電動アシスト自転車の開発が本格化するにあたって難しい問題が、ペダルを漕ぐ力をどこまでモーターがアシストするのか。モーターが強すぎると自転車ではなく免許が必要な電動機付き自転車になってしまう。
開発が始まって2度目の春、菅野に代わる新たなリーダー、小山裕之が着任。試作車をひと漕ぎした小山は衝撃を受けた。ホンダに特別な感情があった。パリ・ダカール・ラリーにエンジニアとして挑んだが一度もライバルに勝てなかった。負け続けた果てにエンジニアを解任されていた。小山はすぐさま試作車の改良に取りかかった。課題は「アナログ制御」だった菅野の試作車を「デジタル制御」に変えること。デジタルのガクガク感をなくすにはさまざまな条件下で走りデータを集めなければならない。目をつけたのは山の斜面に広がる茶畑の私道だった。小山は完成したら母、まつゑを乗せたい、この自転車ができたら母はきっと喜んでくれると思った。
オートバイを主力にしてきた会社において自転車はあくまで自転車だった。だが藤田は涼しい顔をしていられないほどの大問題があることを知っていた。道路交通法。自転車は「人の力により運転する」と定義されている。モーターが付けばそれは原則「原動機付き自転車」になる。否定的な意見が日増しに高まった。渉外担当課長・中村晴夫も否定的な1人。「99%無理」と言われても藤田は引けなかった。娘の渚はただならぬ父の姿を自宅で見ていた。「99%無理」という逆風の中、実験走行は続いた。あったのは一つの思い「この自転車があれば行きたいところに行けるようになる人がきっといる」だった。1990年、四面楚歌の秋、室長の藤田が動いた。「99%無理」と言う中村を本社屋上に呼び出した。中村は半信半疑で乗り、ひと漕ぎして感動の輪が広がろうとしていた。2人は運輸省と警察庁を訪ね「試乗して下さい」と訴え続けた。1991年6月28日、合同試乗会が警察庁の施設で開催されることになった。運輸省と警察庁から参加したのは17人の担当者。小山と藤田は仕組みを説明し「これは自転車。人の力により運転する乗り物です」と話した。午後1時、試乗が始まった。少しすると担当者の顔が変わり始めた。そして坂道を登り始めた時、担当者が笑顔になり「こりゃ楽だ」と発言。担当者の一人は「これは自転車だよな」と言った。ほどなく藤田たちのもとに「自転車の範疇である」という旨の連絡が入った。
試乗会のあとの気持ちについて小山裕之は「もちろん嬉しくてしょうがないっていう気持ちもあったけど、ほっとしたのも大きい」などと話した。試乗会のあとでも山はたくさんあったという。
プロジェクトが順調に進んでいた1992年1月、女性社員による試乗会。「フレームの位置が高くて乗りづらい」など苦情が噴出した。バッテリーを内蔵したフレームが巨大化、またぎづらくなっていた。しかし設計は決定済み、誰もが「もう変えられない」と思っていた。藤田は設計担当、明田のもとへ向かった。明田久稔は頭を抱えた。明田は試行錯誤の末、バッテリーをサドルの下に置くことにした。これにより車体設計は一から見直すことになった。お年寄りや体力がない人、誰が乗っても安全で気持ちいい、そんな乗り物にするために小山たちの実験走行は続いた。「売れるのか」という疑念は藤田にもあった。見た目は自転車だがハイテクを搭載するため価格はオートバイ並み。菅野が生み小山が育てチームで作り上げたこの自転車がこのままでは届けたい人に届かない。藤田は思い切った策を考えた。本部長の長谷川を前に「特許は独占しない」と宣言。さまざまな企業が参入し価格も下がれば必要とする人にきっと届く。だがそれは会社としての利益は優先しないことを意味した。向かった先は自転車業界最大手ブリヂストン。自転車の圧倒的な量産ライン、そしてノウハウがあった。長谷川は言った「世のため人のためどうか力を貸して下さい」。1993年、ヤマハはブリヂストンの協力を得て電動アシスト自転車を生産、テスト販売した。反響は大きく1000台の予定が3000台売れた。翌年の全国販売でも予定の3倍となる3万台が完売、大ヒットとなった。藤田たちを何より喜ばせたもの、それは購入した人からの「おじいさんのお墓は坂が続く丘の上にあり登ることが出来なかった。この自転車を買ってから、毎日おじいさんに会えるようになりました」という手紙だった。「おもちゃに毛が生えたようなもの」と笑われた自転車は人々の暮らしを変えていた。プロジェクトメンバーで開いた祝勝会、めったに笑わない室長、藤田の笑顔がそこにあった。
購入したからの手紙について小山裕之さんは「職場復帰ができたという方がおられた。脚力が弱くて自転車に乗れなかった人が乗れた。嬉しいですね」などと話した。特許を独占しなかったことについて藤田武男は「より幅広い人達に別け隔てなく普及できるような形に持っていく。これを考えながらやっていくスタンスだった」などと話した。電動アシスト自転車は未来技術遺産に殿堂入りしている。振り返って小山裕之さんは「諦めるか諦めないかですよ。みんなの力でたどり着いた」などと話した
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発発売から31年、電動アシスト自転車は通常の自転車を上回る台数が販売されるまでになった。しかし発売から10年は赤字続きだった。社長に就任した長谷川武彦さんはそれを咎めず、新たな感動を届けようと呼びかけ続けた。そのなかで育まれ形となった製品が電動アシスト車いすだった。開発したのは電動アシスト自転車の発案者、菅野信之さん。プロジェクトを離れて退職するまでの24年をこの車いすに捧げた。小山裕之さんの母は脚を悪くし自転車にのることは叶わなかった。母に乗ってもらうつもりだった自転車を小山さんは大切にしている。室長の藤田武男さんは定年退職するまで、開発にその身を捧げた。特許を独占しなかったことでヤマハは、電動アシスト自転車の国内トップシェアを譲ることとなった。しかしその技術は世界30か国に広がっている。
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