2024年10月12日放送 19:30 - 20:15 NHK総合

新プロジェクトX〜挑戦者たち〜
新プロジェクトX 孤立集落へ 命の道をつなげ 〜東日本大震災6日間の闘い〜

出演者
有馬嘉男 森花子 小笠原保 二本松誠 小笠原津多子 
(オープニング)
孤立集落へ 命の道をつなげ 東日本大震災6日間の闘い

2011年、東日本大震災の直後、津波による大量の瓦礫で道路が塞がれ、数多くの孤立集落が生まれた。道を切り開くため誰に頼まれるでもなく、瓦礫の山に突入した人々がいた。それが地元の建設業者だった。これはある孤立集落を救うため命の道をつなげた人々の6日間の物語。

キーワード
東日本大震災
オープニング

オープニング映像。

オープニングトーク

東北の沿岸部を南北に走る大動脈国道45号線。国道45号線は東日本大震災の津波で各地が寸断され、数多くの孤立集落が発生。今回の舞台は岩手県・鵜住居。鵜住居は震災前6600人が住んでいたが、住民の約1割が亡くなり、7割もの住宅が被災した。このとき多くの住民が閉じ込められたのが日向地区。3方を山に囲まれて集落の出入り口は大量の瓦礫で塞がった。孤立した地区を救う為立ち上がったのは地元の建設業者たちだった。

キーワード
日向地区(岩手)東日本大震災鵜住居(岩手)
孤立集落へ 命の道をつなげ 〜東日本大震災6日間の闘い〜
孤立集落へ 命の道をつなげ 東日本大震災6日間の闘い

400人ほどが暮らす岩手・日向地区。東の端には住民たちが手づくりした、大切な場所がある。それが昭和54年にできた野球のグラウンドだった。作ったのは地区の盛り上げ役だった小笠原清二。子どもたちにグラウンドを作ってほしいと頼まれ、清二は連日ボランティアで作業をした。グラウンドの周りには集会所や公園もでき夏には盆踊り、秋にはお祭りと、住民たちの結びつきを育む場所になった。清二の息子の保は父の思いを受け継ぎ建設業者になった。2011年3月11日、午後2時46分、マグニチュード9.0の巨大地震が発生。沿岸部を津波が発生。地震発生から35分、海から50km内陸で仕事をしていた保が祈るような思いで車を走らせていた。妻と娘の安否がわかっていなかった。午後4時、海から2km地点まで戻ってきた保は、道路が水没しているのを目にした。車を捨て、山伝いに歩き始めた。保が目指したのは5日前に開通したばかりの三陸道。妻と娘の無事を確認し三陸道から町を見下ろすと、そこには信じられないほどの瓦礫が押し寄せていた。日向地区には取り残された住民や避難者が逃げ込んでいた。日向地区では大量の瓦礫が道という道を塞いで緊急物資も緊急車両もこれない状況になっていた。保は緊急車両が通れる道を切り開くしかないと考えた。内陸に戻り藤原善生と藤原利一を見つけ自分たちの道を切り開こうと行動を開始した。

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スタジオトーク

誰かが助けに来てくれるって考えはなかった?という質問に小笠原保は「その考えはなかった。自分らがやらなければッていう思いのほうが勝ってた」などと話した。燃料は持って3日だと考えていたという。

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藤原利一藤原善生
孤立集落へ 命の道をつなげ 東日本大震災6日間の闘い

3月12日、午前5時、保たちは動きだした。県道35号の瓦礫を取り除きながら国道45号を目指した。そこから日向地区まで合計2.5kmを切り開く計画。作業を始めた3人の前に、想像を超えた瓦礫の山があった。屋根や車、柱などぐちゃぐちゃになって重なっていた。3人は生存者が中にいるかも知れないと感じていた。保たちは瓦礫をひとかきするたびにエンジンを切り、人がいないか大声で確認した。1時間に進めるのは100mほどだった。日方地区では夜が明けると住民たちは閉じ込められた深刻な状況を理解した。救護活動の先頭にたったのが二本松誠だった。電気も水道も寸断。食料は各家庭の備蓄だけだった。電話も通じず助けが来る気配もなかった。そんな中、集会所に人が集まっていた。炊き出しが行われていた。配られていたのは温かいおにぎりだった。立ち上がったのは、小笠原津多子さんら地区の女性たちだった。3月12日、、午前8時、保たちの作業は止まっていた。道路の真ん中に家がありその先は水没。県道を行くのは厳しい。保は三陸道に繋がる新たな道路を、突貫工事で作ろうとした。3月13日、早朝、即席のインターチェンジが出来上がった。夜、日向地区では食料が尽きかけていた。

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三陸縦貫自動車道日向地区(岩手)藤原善生
スタジオトーク

小笠原保さん、小笠原津多子さん、二本松誠さん3人は震災前からの知り合い。小笠原津多子さんは「娘や息子など家族の安否さえも考えてる暇もなく目の前のことをやっていた。傷ついた方たちが目の前にくる。目の前のことをやるしかない。みんなそうだった」などと話した。

孤立集落へ 命の道をつなげ 東日本大震災6日間の闘い

3月14日、保は三陸道から点検用側道を降り、日方地区にたどり着いた。集会所まではあと400mの道のり。狭い道路の上には大量の瓦礫が積み重なっていた。保は瓦礫の中で背中を向けて亡くなっている遺体を目にした。休みなく作業してきた保の心と体は限界に達していた。そんなときに声をかけたのが消防団の二本松誠だった。この頃、誠らは遺体の収容に奔走していた。その様子を見た保は胸を打たれた。さらに保の背中を押したのが、瓦礫の上に立てた旗だった。旗は下に遺体があることを知らせる目印だった。この旗のお陰で、遺体を避けて道を開くことができた。食料が尽きかけた集会所では津多子さんらが必死で食いつないでいた。家族が5人も炒る中で2キロしかないお米を持ってきてくれる人もいたという。3月16日、あと100mのところで、最後の難関が立ちはだかった。道路の上に流されてきた家が重なり、行く手を遮っていた。ここを通れと道を示したのが、少年野球の監督・古川政喜さんだった。そこは、地域のみんなが募った思い出のグラウンド。瓦礫がネットで堰き止められ能路の上よりまばらで、道を切り開きやすかった。保は、ネットをぶっ壊し、グラウンドへ入っていった。こうして、集会所までの道が繋がった。その道を通り、ご飯や支援物資がすぐに届けられた。

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日向地区(岩手)
スタジオトーク

小笠原津多子さんは「当時は涙も流すことが出来ないくらい一生懸命だった。今、映像をみると涙が出てくる」などと話した。突き動かしていたものは?という質問に二本松誠さんは「自分は消防団員で、保のような仕事もできないし、半纏を着てる以上は死んだ方があっても見ないふりはできない。協力しないと人々は乗り越えられない。普段からコミュニケーションを取って声をかけられる状態にしとくのが大事」などと話した。

孤立集落へ 命の道をつなげ 東日本大震災6日間の闘い

震災から13年、鵜住居の町はまだ再建の途上。震災前6600だった人口は半数近くまで減った。今年8月、小笠原保さんがリーダーになり矢倉を組む作業が行われていた。あの日、瓦礫に埋もれたグラウンドの脇で毎年高齢の盆踊りが行われる。しかし突然の大雨。それでも多くの人が集まってきた。高校3年の佐々木日向さん。父が故郷への思いを込めて、この名前を付けた。地域を離れた今も、この盆踊りに参加している。帰省中の若者が踊れない変わりに音楽で盛り上げた。

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(エンディング)
エンディング

エンディング映像。

次回予告

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