3月14日、保は三陸道から点検用側道を降り、日方地区にたどり着いた。集会所まではあと400mの道のり。狭い道路の上には大量の瓦礫が積み重なっていた。保は瓦礫の中で背中を向けて亡くなっている遺体を目にした。休みなく作業してきた保の心と体は限界に達していた。そんなときに声をかけたのが消防団の二本松誠だった。この頃、誠らは遺体の収容に奔走していた。その様子を見た保は胸を打たれた。さらに保の背中を押したのが、瓦礫の上に立てた旗だった。旗は下に遺体があることを知らせる目印だった。この旗のお陰で、遺体を避けて道を開くことができた。食料が尽きかけた集会所では津多子さんらが必死で食いつないでいた。家族が5人も炒る中で2キロしかないお米を持ってきてくれる人もいたという。3月16日、あと100mのところで、最後の難関が立ちはだかった。道路の上に流されてきた家が重なり、行く手を遮っていた。ここを通れと道を示したのが、少年野球の監督・古川政喜さんだった。そこは、地域のみんなが募った思い出のグラウンド。瓦礫がネットで堰き止められ能路の上よりまばらで、道を切り開きやすかった。保は、ネットをぶっ壊し、グラウンドへ入っていった。こうして、集会所までの道が繋がった。その道を通り、ご飯や支援物資がすぐに届けられた。