よみがえる新日本紀行から熊本・五木村を紹介。高齢の世代には「五木の子守唄」で知られるが、この曲は貧困のために にでた子どもが奉公の先で子どもをあやす中で自分の心情を嘆いた厳しく貧しい暮らしの中で生まれた悲しみの歌である。五木村は壇ノ浦の戦で敗れた平家が追手を逃れて住み着いたとされる場所となっていて、かつては自給自足の生活を送る中で急な山の斜面で原始的な焼畑農業を営んできた。米が自由に手に入ると雑穀の木場作から林業へと変えていった。五木の造林事業が軌道に乗った最中水害に襲われることとなった。昭和38年8月の集中豪雨は村を麻痺させ、水害はその後も続くことで人々は村を離れていった。濁流に流された人々はその後ダム建設のために立ち退きを迫られることとなった。昭和51年にはアーチ式ダムが村に出来上がったが、平地であることから村の中心となった部分は水没することとなった。五木村では年に1度村を上げての体育祭が開かれていて、祭りのように熱を帯びる日となっていて、ここでも五木の子守唄が歌われた。子別峠は村の木場作が盛んだった頃に子守奉公に出る子どもを親が見送る場所となっていて、五木の子どもたちは今でも中学を出ると殆どが遠くへ働きに出てしまった。昭和35年には6000人いた人口はこの10年で半分に減ってしまった。結婚式もめっきり少なくなったが、宴会の席には地蔵が運ばれていたが、これは2人が末永く五木に居着いてほしいとの願いがあるという。新郎と新婦はお地蔵様を元も場所へと返すのだといい、結婚式のたびにお地蔵様の胸当ては増えていくという。五木村では焼畑農業が今も行われているが、蕎麦などと同時に五木赤大根など珍しい品種が育てられている。BSでは11日の午前10時15分から「よみがえる新日本紀行」が放送され、現在の五木村の様子を知ることができる。