神戸の絵画教室で毎年開かれている震災・命の授業。子どもたちが描くのは、あの日の光景。語りかけるのは画家でアトリエ太陽の子の代表の中嶋洋子さん。子どもたちにむけて自身も経験した当時の記憶をありのままに話す。生きたくても生きられなかった人たちはどんな思い出亡くなったのか?もしも自分や家族だったら?頭に思い浮かぶ姿や光景を浮かべながら子どもたちが命と向き合う。1995年1月17日午前5時56分に阪神淡路大震災が発生し、淡路島北部を震源とする最大震度は7。冬の朝を襲った激しい揺れで多く建物が崩壊したくさんの人々が下敷きになり亡くなった。建物が密集していた場所では火災が同時に発生し、消防活動も追いつかず。6434人が死亡した。神戸市東灘区に住んでいた中嶋さんに大きな怪我はなかったが教え子の姉妹をなくした。自宅が倒壊し、一階にいた家族5人全員が亡くなったという。
画家として順調に活動してきた中嶋さん。教え子の別れが転機となった。アトリエの子どもたちも震災のショックをうけて笑えなくなっていた。中嶋さんはなにかできることがあればと子どもたちのショックを絵でもとに戻す活動をしようと考えた。傷ついた神戸のためにできることは子どもたちとともに絵を描くこと。中村翼さん30歳。その両親は30年前に神戸市兵庫区で被災した。翼さんは大学生の時に自分が生まれた時のことを両親に尋ねた。その時の恐怖心などを聞いて、震災の語り部として自分が生まれたあの日を伝えている。2022年冬にアトリエ太陽の子で、震災の日に生まれた中村さんの話を絵本にすつ取り組みが行われら。子どもたちがそれぞれ描きたい場面を絵で表現する。藤倉ひなたさんは幼稚園の頃からアトリエに通う。小学3年生の水上はるかさんも絵本づくりを行っている。この絵本づくりを企画したのは中村さんの大学時代の恩師の舩木さん。
舩木さんは絵本の文章を描き、絵をアトリエ太陽の子の子どもたちに依頼した。震災当日に生まれた中村翼さんの物語を子どもたちが思い思いに描いてきた絵をもっと事実に沿ったものにするために中嶋さんは中村さんの両親を招いて当時の話を聞くことに。震災から30年近くが経過し中村さん夫婦があの日の出来事を家族以外に語るのは初めてだという。中村さんの両親は子どもたちに震災経験を話した1時間半の特別授業が終わり、中村さんは子どもたちと震災の経験を聞き、両親に感謝した。
中嶋さんが子どもたちに絵を教えて43年。今も画家を続けながら2時間の教室を週に7コマこなす。子どもたちは絵を仕上げコラージュをするなどし絵に立体感を出した。原画が仕上がった。原画はいよいよ印刷に進んだがその出版にかかる費用はクラウドファンディングの寄付金で賄った。全国にいるアトリエの子どもたちで300万円ちかくが集まった。絵本づくりのバトンを受け継いだのは神戸の印刷会社の交友印刷。あの日、兵庫区にあった本社は全壊し、崩れ落ちた建物の中から大切な原稿や印刷機を持ち出し業務を続けた。今回力になりたいと印刷を快諾した。子どもたちの描いた色に近づけるために何度も調整をした。こうして本ができあがった。
画家として順調に活動してきた中嶋さん。教え子の別れが転機となった。アトリエの子どもたちも震災のショックをうけて笑えなくなっていた。中嶋さんはなにかできることがあればと子どもたちのショックを絵でもとに戻す活動をしようと考えた。傷ついた神戸のためにできることは子どもたちとともに絵を描くこと。中村翼さん30歳。その両親は30年前に神戸市兵庫区で被災した。翼さんは大学生の時に自分が生まれた時のことを両親に尋ねた。その時の恐怖心などを聞いて、震災の語り部として自分が生まれたあの日を伝えている。2022年冬にアトリエ太陽の子で、震災の日に生まれた中村さんの話を絵本にすつ取り組みが行われら。子どもたちがそれぞれ描きたい場面を絵で表現する。藤倉ひなたさんは幼稚園の頃からアトリエに通う。小学3年生の水上はるかさんも絵本づくりを行っている。この絵本づくりを企画したのは中村さんの大学時代の恩師の舩木さん。
舩木さんは絵本の文章を描き、絵をアトリエ太陽の子の子どもたちに依頼した。震災当日に生まれた中村翼さんの物語を子どもたちが思い思いに描いてきた絵をもっと事実に沿ったものにするために中嶋さんは中村さんの両親を招いて当時の話を聞くことに。震災から30年近くが経過し中村さん夫婦があの日の出来事を家族以外に語るのは初めてだという。中村さんの両親は子どもたちに震災経験を話した1時間半の特別授業が終わり、中村さんは子どもたちと震災の経験を聞き、両親に感謝した。
中嶋さんが子どもたちに絵を教えて43年。今も画家を続けながら2時間の教室を週に7コマこなす。子どもたちは絵を仕上げコラージュをするなどし絵に立体感を出した。原画が仕上がった。原画はいよいよ印刷に進んだがその出版にかかる費用はクラウドファンディングの寄付金で賄った。全国にいるアトリエの子どもたちで300万円ちかくが集まった。絵本づくりのバトンを受け継いだのは神戸の印刷会社の交友印刷。あの日、兵庫区にあった本社は全壊し、崩れ落ちた建物の中から大切な原稿や印刷機を持ち出し業務を続けた。今回力になりたいと印刷を快諾した。子どもたちの描いた色に近づけるために何度も調整をした。こうして本ができあがった。