福島県会津坂下町でりんご園を営む伊藤は、1934年に福島県で生まれ、生後2ヶ月の頃に一家でテニアン島に移住した。伊藤は当時のテニアン島は果物は豊富で自分たちにとっては極楽のような楽しい生活を送れていたなどと語った。1944年7月24日にアメリカ軍がテニアン島を侵攻し、伊藤一家はカロリナスの洞窟に避難し、同じ洞窟には6家族31人が息を潜めていた。1944年8月1日、洞窟に隠れていた伊藤たちのもとに2人の日本の兵隊が訪れ、今夜が最後の突撃で明日には日本兵が一人もいなくなると告げられ、計5つ手榴弾を手渡していったのだと明かした。伊藤ら6家族は集団自決を覚悟したが、翌2日、洞窟の入り口にアメリカ軍が迫ると、伊藤らは手榴弾を起爆させ、うち3つが爆発し、2つは不発に終わった。不発であった伊藤家は姉以外が洞窟に残り、ほか6人と姉は恐怖から洞窟から逃げ出した。洞窟に残った伊藤家は父・久吉の判断で命を断とうと父の手で家族に手を下していたが伊藤は父に殴られた時点で気を失い、意識を取り戻すと捕虜収容所にいたのだという。伊藤と母は治療を受けて一命をとりとめた。父・久吉もアメリカ軍に保護され、伊藤は父が戦争について語ったのは自分がとどめを刺さなければ何人かの方は生きていただろうという言葉だけだったなどと明かした。終戦の翌年に伊藤家は福島県に戻り、伊藤の両親は六地蔵を建てている。伊藤は父は愛があったからこそ我が子にも手にかけ、辛かったはずなどと話した。