2025年7月28日放送 0:55 - 1:50 日本テレビ

NNNドキュメント’25
「テニアン 玉砕と原爆の島

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(オープニング)
オープニング

オープニング映像。

テニアン 玉砕と原爆の島

日本の南約2500kmにあるテニアン島。テニアン島には日本本土を爆撃するB29の発進基地があった。広島型原爆リトルボーイ、長崎型原爆ファットマン、原爆投下部隊はテニアン島の発進基地から出撃した。かつてテニアン島には日本人移民が暮らし、多くの民間人が戦争の犠牲となった。そしてテニアン島は再び軍事的拠点になろうとしていた。

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テニアン 玉砕と原爆の島

リゾート地であるサイパン島のすぐ近くにあるテニアン島。テニアン島の主な産業は観光業で、牧畜・農業も行われている。人口は約2000人。この日サンホセ村のレストランでは87歳となった女性の誕生日パーティーが行われていた。テニアン島は現在は住民たちが支え合う平和な島となっている。ノースフィールドにはかつて発進基地があり、日本に投下された原爆はこの地で組み立てられた。原爆組み立て工場跡地は現在も残っており、原爆ピットには当時の写真が残されている。原爆投下部隊はアメリカ陸軍航空軍の第509混成群団で約1800人、その指揮をとったのは当時30歳のポール・ティベッツ大佐。1945年8月6日、午前1時45分に発進し、午前8時15分に広島に原爆が投下された。8月9日午前11時2分には長崎に原爆が投下され、日本が降伏した。原爆が勝利をもたらしたとし、ポールはアメリカの英雄となった。原爆犠牲者は約21万人で、生き延びた被爆者たちは後遺症やいわれのない差別に苦しみ、放射線による健康被害は今も続いている。

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テニアン島の2月、佳子はテニアン島出身の男性と結婚し、36年前に移り住んでおり、6年前まではテニアン高校で日本語教師をしており、2005年には生徒たちを引き連れ原爆資料館で原爆被害の実態を学ばせていた。戦闘記念式典に出席したポール・ティベッツは司会者からはアメリカの英雄として出迎えられ、結果として自分たちは200から300万の人々の命を戦争を終わらすことで救ったのだなどと演説し、このポールの主張は長い間アメリカで多くの人々が支持していた。アメリカ軍によるイランの核施設攻撃についてトランプ大統領は本質的に広島・長崎の原爆投下と同じで闘いを終わらせる効果があったとした。テニアン高校の生徒達を取材した様子を紹介。ポール・ティベッツは原爆投下を肯定し続け、一方でだからこそ戦争は絶対に起こしてはいけないと言葉を残している。

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テニアン島にはかつて多くの日本人が暮らしていた。テニアン島は1920年から日本が統治し、約1万5000人が移住し、その地はサトウキビ栽培に適し、市街地には映画館やカフェもあり、移住者の約7割が沖縄県出身であった。沖縄県中城村には戦前のテニアン島で暮らしていた新垣がいる。新垣は1934年にテニアン島で生まれであり、同級生は50人ほどいたという。1944年6月にサイパン・テニアン戦が始まり、アメリカ軍がテニアン島北部から上陸し、新垣一家は南部のカロリナスへ逃れていった。当時テニアン島では日本の軍と民間人が約1万5000人が亡くなったとされている。サイパンやテニアンでは当時、多くの人々が海に身を投げ自ら命を断っていた。新垣も両親に一緒に海に身を投げようと提案されるも、海に浮かぶ死体を目の当たりにし、山奥へ逃げると家族も一緒についてきてくれ、家族皆助かることが出来たなどと明かした。

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福島県会津坂下町でりんご園を営む伊藤は、1934年に福島県で生まれ、生後2ヶ月の頃に一家でテニアン島に移住した。伊藤は当時のテニアン島は果物は豊富で自分たちにとっては極楽のような楽しい生活を送れていたなどと語った。1944年7月24日にアメリカ軍がテニアン島を侵攻し、伊藤一家はカロリナスの洞窟に避難し、同じ洞窟には6家族31人が息を潜めていた。1944年8月1日、洞窟に隠れていた伊藤たちのもとに2人の日本の兵隊が訪れ、今夜が最後の突撃で明日には日本兵が一人もいなくなると告げられ、計5つ手榴弾を手渡していったのだと明かした。伊藤ら6家族は集団自決を覚悟したが、翌2日、洞窟の入り口にアメリカ軍が迫ると、伊藤らは手榴弾を起爆させ、うち3つが爆発し、2つは不発に終わった。不発であった伊藤家は姉以外が洞窟に残り、ほか6人と姉は恐怖から洞窟から逃げ出した。洞窟に残った伊藤家は父・久吉の判断で命を断とうと父の手で家族に手を下していたが伊藤は父に殴られた時点で気を失い、意識を取り戻すと捕虜収容所にいたのだという。伊藤と母は治療を受けて一命をとりとめた。父・久吉もアメリカ軍に保護され、伊藤は父が戦争について語ったのは自分がとどめを刺さなければ何人かの方は生きていただろうという言葉だけだったなどと明かした。終戦の翌年に伊藤家は福島県に戻り、伊藤の両親は六地蔵を建てている。伊藤は父は愛があったからこそ我が子にも手にかけ、辛かったはずなどと話した。

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島根県出雲市に住む山崎の父・金三郎は海軍の兵士あり、テニアン島で戦死した。山崎は昭和22年4月に戦死公報が届いたなどと紹介し、テニアン島にいた兵隊はすべて8月2日が戦没日だと明かした。今年2月、山崎はテニアン島での遺骨調査に参加していた。山崎は7年前から遺骨調査に参加し、今回で12回目であった。テニアン島では1952年から日本人の遺骨調査が行われ、いまも約5000人の遺骨が未収容となっている。遺骨調査には現地人や日本の大学生ボランティア、東京科学大学や厚生労働省から専門家も参加している。発見された遺骨はDNA鑑定で身元特定されれば遺族のもとに還される。山崎はいまなお110万ぐらいの骨が海外で日本への帰りを待っており、それらをなるべく早く日本へ連れて帰るのは当たり前のことなどと話した。

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2月、テニアン国際空港には東京都遺族連合会の理事である岡野が訪れていた。岡野の父・正朝はフィリピンのミンダナオ島で戦死した。海外の戦没者を慰霊する旅の途中でテニアン島に立ち寄ったという岡野は日本人の慰霊碑が並ぶカロリナスに訪れ慰霊した。アメリカ空軍はかつての飛行場の再整備を行っており動画も公開している。再び基地が出来ることについてテニアン島の島民は軍により雇用が生まれるため経済的には良いことであるが戦争が再び起こるかは分からないなどと語った。テニアン高校の学生たちは島の平和を願っていた。原爆とテニアン島の関わりを伝え続けてきた佳子はテニアン島で戦争の犠牲になった日本人のために慰霊碑を建てた。新垣は海に身を投げた人たちの無念を今尚背負って生きている。父がテニアン島で家族を手にかけるという悲惨な体験をした伊藤は信じることが出来ないような話であっても本当の出来事であったことだけは若い世代にもわかってほしいなどと述べた。

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(エンディング)
次回予告

次回予告。

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