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「光海軍工廠」 のテレビ露出情報

動員中に亡くなった約190人の犠牲者の名簿。学徒のほか教員の名前も記されていて、昭和31年ごろに元学徒たちがまとめた。氏名や働いていた場所に加え、死亡の原因も記載されている。死因の多くは爆撃だが、名簿には「事故」や「過労」で亡くなった人も含まれていた。死亡した河添輝久さんは、県立徳山工業学校から近くの軍事工場に動員された。犠牲者名簿の死因は「火傷並骨折」、死亡日や前後には空襲の記録はなく爆撃のけがではないとみられる。名簿に乗る約190人のうち1割は空襲以外で死亡したと記載されている、輝久さんの学校では犠牲者17人中8人にのぼる。
当時、学徒はどんな作業をしていたのか。柳井高等女学校の元学徒・森重笑子さんは、昭和20年6月光海軍工廠に動員された。空襲を避けるため大型機械を約1キロ離れたトンネルへ移動させることが主な仕事だったという。魚雷や砲弾を生産していた、光海軍工廠。昭和20年には、約6500人の学徒が働いてた。工場では死亡事故も起きていたという。林康子さんは当時16歳、昭和20年7月の終戦間際の事故だった。電動車が暴走し、林さんは振り落とされて負傷し亡くなったという。安全や健康が十分に守られない中で、犠牲になった学徒たち。戦争を遂行するために若い命がいかに軽く扱われたのか、名簿に残る1人1人の名前が訴えかけている。

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