足利尊氏の挙兵をきっかけに東北では後醍醐天皇の政治に不満を抱く武士たちが決起した。北畠は連戦の末、足利尊氏に勝利を収め、東北へ戻った。尊氏は九州に落ち延びるも再起を図り、北畠顕家は再び京へ向かうことになったが、鎌倉に着到するだけでも130日を要した。後醍醐天皇の治世では恩賞がちぐはぐで、足利を支持する武士たちが多く、北畠軍に立ちはだかった。さらに足利軍は立てこもった城に鉄壁の守りを敷いていた。そんな時、行方知らずだったはずの北条時行が鎌倉に駆けつけた。激戦の末、鎌倉の攻略に成功するも、京都に接近するにつれて抵抗は激しさを増した。大阪・堺にたどり着いた北畠顕家は天皇に政策を上奏する書状をしたためたあと、21歳で戦死。北条時行は鎌倉を奪還するも、28歳の時に戦死した。松井優征氏は「折れない心と強い意志をもって戦い続けた武将が浮かび上がってくる」と述べた。