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「半藤一利」 のテレビ露出情報

終戦から数日で闇市が開かれるようになった。当時は生き抜くために誰もが必死だったという。終戦の翌年に浜松に町工場が誕生した。立ち上げたのは本田宗一郎。そこで自転車用補助エンジン「バタバタ」を作って爆発的にヒットさせたという。一方で井深大も会社を立ち上げて、アメリカ製のテープレコーダーを元に日本初のテープレコーダーを作り出した。ただまったく売れず、小型化して安くしたら学校で買われるようになり、民法やラジオ局も導入するようになった。
敗戦後に親を失った戦災孤児は12万人もいた。窃盗やスリ、物乞いに身を投じる孤児たちが社会問題になっていた。こうした戦災孤児たちの救済を謳ったラジオドラマが製作された。このラジオドラマで古関裕而は曲を手掛けた。戦時中は戦意高揚の歌を作っていたが、戦後は人々に希望を与えるような歌を作っている。全国高等学校野球選手権大会の歌も手掛けているという。
娯楽のなかった子どもたちの心を掴んだのはマンガだったという。そうした中で手塚治虫のマンガが話題になったという。マンガを買えない子どもたちは貸本屋に集まり、手塚治虫のマンガを読んだという。
昭和27年にサンフランシスコ平和条約が発効し、日本は独立を回復した。こうした中で手塚治の「鉄腕アトム」の連載がスタートした。昭和28年にはテレビ放送が開始された。テレビでは力道山のプロレスの試合が話題になり、これがテレビ普及の起爆剤になった。
戦後10年。オードリー・ヘップバーンにあこがれて女性のショートカットが流行した。そして経済的な余裕も生まれつつあった。この頃、井深大はトランジスタを使って小型のラジオ作れないかと挑戦し、昭和32年に世界最小のトランジスタラジオが誕生した。これがアメリカでヒットし、他のメーカーもこぞって製造した。一方でホンダはスーパーカブを売り出し、アメリカでもブームになった。
国民的スターになった力道山はリングの外でもスポットライトを浴びて、美空ひばりとも共演したという。様々な事業にも進出して実業家としても活躍した。ただ昭和38年にナイトクラブで腹を刺されて死亡した。力道山が亡くなった年にアニメ「鉄腕アトム」の放送が開始された。「鉄腕アトム」は国民的キャラクターになり、天皇陛下もお気に入りだったという。またホンダは四輪自動車の生産を開始した。さらに昭和39年には東京オリンピックが行われた。
昭和48年に本田宗一郎は社長を退任し、その後は数年をかけて国内外の工場や営業所を訪れて、一人一人にお礼を伝えたという。そして本田宗一郎は84歳で亡くなった。本田宗一郎を慕う会には井深大も参列したという。2人は生涯の友として認め合い尊敬し合ってきたという。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年8月16日放送 5:40 - 5:50 NHK総合
NHK映像ファイル あの人に会いたいNHK映像ファイル #625
自らの戦争体験を原点に戦争の悲惨さと愚かさを訴え続けてきた半藤一利さん。数多くのノンフィクション作品で戦中戦後の知られざる歴史的事実を掘り起こした。半藤さんは14歳の時に東京大空襲を経験する。九死に一生を得た翌朝、一面の焼け野原に立ち肝に銘じたことが「世の中に絶対というのはない」ということだという。大手出版社の編集者となった半藤さんは、小説家・坂口安吾につか[…続きを読む]

2025年5月22日放送 23:50 - 0:35 NHK総合
映像の世紀バタフライエフェクト(映像の世紀 バタフライエフェクト)
1945年8月。ソ連軍の朝鮮北部進軍により、35年に及ぶ日本の朝鮮支配は終わりを迎えた。それから1ヶ月後、朝鮮南部にはアメリカ軍が進軍。両者は38度線を境界とし、朝鮮半島を分割統治することになった。この分割統治案は8月14日に2人の米軍将校が30分で起草したもので、統治の開始直後は国境の警備も緩く、現地の兵士たちも互いに友好的なムードで接していたという。それ[…続きを読む]

2025年2月12日放送 15:50 - 19:00 日本テレビ
news every.4時コレ
冷たい雨が降る中、秋篠宮家の長男・悠仁さまの姿があったのは京都府舞鶴市。お一人で訪問されたのは「舞鶴引揚記念館」。この場所では第二次世界大戦後に旧満州や朝鮮半島、シベリアなどから日本へ帰ってきた人たちのうち約66万人が引揚者として舞鶴港に帰国した歴史がある。資料の一部が「ユネスコ世界記憶遺産」にも登録されているこの記念館は、引き揚げの苦難の歴史などを学べる施[…続きを読む]

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