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「原口忠次郎」 のテレビ露出情報

明石海峡大橋は地元の人たちにとって悲願だった。1957年、戦後の焼け野原から復興した神戸。この日市議会は市長の大風呂敷を巡り紛糾していた。神戸市長・原口忠次郎は「今こそ神戸と四国を橋で結び陸続きにすべきだ」と訴えた。戦争前内務省に勤めていた原口は四国で見た厳しい暮らしが忘れられなかった。交通網の整備は遅れ、豊かな物産を阪神地方に大量輸送するすべがない。そして本州へ渡る連絡船では難破事故が起き多くの命が失われていた。これ以上悲劇を放置してはおけない、橋の建設は阪神地方にも恩恵があると原口は訴えた。しかし原口の提案を真に受ける者はなかった。四国から淡路島を経由して神戸へつなぐルート。しかし明石海峡が問題だった。4キロにわたる明石海峡は激しい潮流で知られ海中工事は至難の業。水深も深いため、つり橋でしか越えられない。だが世界を見渡してもそれほど長いつり橋などない。4年後、淡路島が悲劇に見舞われた。第2室戸台風が直撃、避難しようにも橋はなく犠牲者が出た。そのとき淡路島に住んでいた穐山正幸。復旧工事を指揮する父の疲弊した顔に橋がない島の悲しさを思った。神戸市長の原口は蹴られても蹴られても国への陳情を続けていた。さらに毎月発行したのが「調査月報」。海外の最新のつり橋技術を翻訳し関係するメーカーに配り続けた。しかし構想から16年、1度は動きかけた橋の建設はオイルショックで頓挫。原口は着工を待たずに亡くなってしまった。「橋の見える場所に葬ってほしい」というのが遺言だった。
ちょうどそのころ神戸に本社を置く神戸製鋼に仕事に身が入らない新入社員がいた。それがかつて淡路島で台風に遭った穐山正幸だった。神戸製鋼を選んだのは家から近いから。入社3年目、生意気な言動がたたり異動を命じられた。放り込まれたのは会社でも異色のつり橋の部署だった。鋼鉄のケーブルをつくるだけでなく工事の方法から考案する部署だった。上司は三田村武。三田村はかつて米国でゴールデンゲートブリッジを見た。偶然にも自分が生まれた1937年に建設されたという事実が印象深かったという。三田村「読んでおけ」と穐山に原口のもとで作られた「調査月報」を渡した。調査月報はつり橋技術を学べる唯一無二の教材だった。定時に帰っていた穐山が休み時間までむさぼり読むようになった。ある日現場に出た。しかし三田村は課題を伝えるとどこかに行ってしまう。必死で答えを考えるが三田村の指摘は的確。「あかんやん」と突き返された。三田村の勉強量は計り知れない。あの「あかんやん」をいつか封じてみせたいと穐山は思った。10年の時が流れた。いつしか師匠と弟子の間柄になった三田村と穐山に待望のニュースが飛び込んだ。構想から30年、明石海峡大橋の建設がついに動きだす。三田村と穐山世界一のつり橋への挑戦が始まった。

他にもこんな番組で紹介されています…

2024年5月11日放送 19:30 - 20:15 NHK総合
新プロジェクトX〜挑戦者たち〜世界最長 悲願のつり橋に挑む 明石海峡大橋40年の闘い
明石海峡大橋は地元の人たちにとって悲願だった。1957年、戦後の焼け野原から復興した神戸。この日市議会は市長の大風呂敷を巡り紛糾していた。神戸市長・原口忠次郎は「今こそ神戸と四国を橋で結び陸続きにすべきだ」と訴えた。戦争前内務省に勤めていた原口は四国で見た厳しい暮らしが忘れられなかった。交通網の整備は遅れ、豊かな物産を阪神地方に大量輸送するすべがない。そして[…続きを読む]

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