東京大空襲の後、4月から5月にかけて都心部を標的に繰り返された山の手空襲。中でも5月25日深夜に始まった空襲は300人余りが犠牲になるなど最も大きな被害が出た。明治時代に皇居に建てられた木造の宮殿「明治宮殿」は国の公的な行事が行われたほか、天皇皇后の私的な生活の場でもあった。明治宮殿も火災の飛び火で26日未明に焼け落ちた。消火活動や宮殿内の物を運び出す中で近衛師団の将兵・消防隊員など40人が犠牲になった。東京消防庁の元消防士 中澤昭さんは、戦後あまり語られなかった宮殿の消火活動を本にまとめた。背景については消防関係者に箝口令が敷かれ、空襲関係資料が処分された他、占領軍の言論統制もあったという。大日本帝国憲法の時代、皇居は一時期を除き一般の立ち入りが厳しく制限されていた。終戦の年の12月、焼け跡の整理をきっかけに清掃作業などにあたるボランティアが入るようになりその後明治宮殿があった場所で一般参賀が行われるようになった。こうした皇居に一般の人が入るながれは高度経済成長期になってから建設された新宮殿にも受け継がれ明治宮殿には無かった長いベランダと、人々が集まる広い前庭が設置された。専門家は、空襲による宮殿消失は戦後の皇室・皇居のあり方に影響を及ぼしたと指摘する。名古屋大学の河西秀哉准教授は、皇居が少しずつ開かれていっているのは象徴天皇のあり方の変化とも関係している、皇居があること自体が私達と天皇の関係を示していると語った。