堀内誠一は1932年に図案家の父のもとに生まれた。様々なデザインに囲まれて育ち、絵を描くのが大好きな子どもだった。地図を描くことも得意で小学生の頃に太平洋戦争の戦況を伝えるためにソロモン諸島などの複雑な地形を黒板に描くのが彼の仕事だった。大人になってもたくさんの手書き地図を雑誌に掲載した。展覧会を企画したキュレーターの林さんは、一回いった街は覚えていたという。その土地の特徴や小さな路地一つ一つ、オススメの店情報など、ポップだが緻密。終戦を迎えると家計を支えるためにわずか14歳で伊勢丹百貨店に就職した。外国の雑誌や、デザイン集などが集まる百貨店をエンサイクロペディアのなかに住んでいるようなものとたとえ、隅から隅まで探検した。沢山の刺激をうけながら、ウインドウディスプレイやリーフレットを手掛け、伊勢丹のPR誌を任されたのは20歳のとき。そのセンスを買われ、他企業からもオファーを受け、PR誌をデザインした。そして様々なデザインの経験を積んで、作り上げたのがanan。1970年に現在のマガジンハウスで創刊された。堀内はロゴデザインに紙面全体のレイアウト、企画、取材、写真撮影まで、あらゆることを手掛けた。後に堀内とともにPOPEYEなどを手掛けた石川さんは衝撃的だったという。
当時ほとんどなかった海外ロケのananでは定番に。堀内はananを魔法の絨毯と呼び、取材にかこつけてアメリカやヨーロッパやインドなどを世界中を駆け巡り多いに楽しんだ。読者に新しい生き方や、価値観、そしてみたことのない世界を教えてくれた。
当時ほとんどなかった海外ロケのananでは定番に。堀内はananを魔法の絨毯と呼び、取材にかこつけてアメリカやヨーロッパやインドなどを世界中を駆け巡り多いに楽しんだ。読者に新しい生き方や、価値観、そしてみたことのない世界を教えてくれた。