2011年3月11日宮城県気仙沼市では震度6弱の地震と共に高さ最大20mの津波が押し寄せ死者・行方不明者1434人に上った。「津波死ゼロのまちづくり」を目指す気仙沼市。気仙沼向洋高等学校の旧校舎に中丸さんは訪れた。現在は震災遺構となっている。ここで活動している岩槻さんは13年前5歳の時に幼稚園にいて被災し避難中津波を目撃した。岩槻さんは東日本大震災の記憶を伝えるため体験談を交えて中学2年生から語り部の活動を行っている。地上から8mの高さにある校舎3階の天井は剥がれており12mを超える波がきたことなどを解説した。岩槻さんは心に傷を負ってしまった方に対する寄り添い方を模索していると話す。建物の屋上で岩槻さんは「より遠くへより高台へ」と伝えた。当時屋上へ避難した先生たちは机とハシゴでさらに上を目指した。岩槻さんは紙を使って震災当時の記憶を風化させない取り組みもしている。
岩槻さんの将来の夢は保育士。去年から幼稚園でも活動を始めた。当時通っていた大谷幼稚園で自身の作った”ぼうさいものがたり”を披露するという。これまで3回気仙沼市内などで披露してきたぼうさいものがたりを母校で披露するのは初めてだと話す。物語の中にクイズなどを交えながら子ども達に解説して被災当時と同じ世代にも記憶や思いを繋いでいる。春から東京の大学に進学する岩槻さん。保育士を目指すきっかけは母の由紀子さんが保育士の仕事に就いていたことだった。将来は保育士として再び気仙沼へ戻るという。自身が震災当時5歳だった記憶を今の5歳の子たちに私の言葉で伝えたいなどと話した。
岩槻さんの将来の夢は保育士。去年から幼稚園でも活動を始めた。当時通っていた大谷幼稚園で自身の作った”ぼうさいものがたり”を披露するという。これまで3回気仙沼市内などで披露してきたぼうさいものがたりを母校で披露するのは初めてだと話す。物語の中にクイズなどを交えながら子ども達に解説して被災当時と同じ世代にも記憶や思いを繋いでいる。春から東京の大学に進学する岩槻さん。保育士を目指すきっかけは母の由紀子さんが保育士の仕事に就いていたことだった。将来は保育士として再び気仙沼へ戻るという。自身が震災当時5歳だった記憶を今の5歳の子たちに私の言葉で伝えたいなどと話した。