徳川幕府の歴史を研究する野村さんによると、大阪城に生前の父・秀忠と息子・家光の関係性を伺わせるものがあるという。それが、幕府が大阪城の工事を命じた際の記録。この時、家光がすでに将軍になっていたが、命令を出したのは隠居した秀忠。家光が秀忠への尊敬から霊廟を建築した訳ではなさそう。国立歴史民俗博物館所蔵の家光の業績をたたえるために作られた屏風絵に秀忠の霊廟が描かれている。家光は将軍になったあとも長年実権を握れず、その権威は不安定なものだった。徳川家の家臣は秀忠側と家光側に分かれてしまい、家光と有力な大名との主従関係も希薄に。そこで、家光は自身の権威を高めるため秀忠の死後に豪華な霊廟を造った。そして、さらなる霊廟の活用も。
家康は霊廟をどう活用したのか、江戸時代の儀式に詳しい寺嶋さんと調査。手がかりは家光が霊廟にお参りした際の記録で参加した武士たちの配置が示されている。家光は秀忠の位牌のすぐ近く、その周囲には御三家や幕府首脳陣が。関ヶ原や大坂の陣で奮戦した功労者である秀忠の側近は塀の外に座らされていた。家光側近の位置は塀より内側で、自分の側近を秀忠の側近より上と明確に位置づけた。
家康は霊廟をどう活用したのか、江戸時代の儀式に詳しい寺嶋さんと調査。手がかりは家光が霊廟にお参りした際の記録で参加した武士たちの配置が示されている。家光は秀忠の位牌のすぐ近く、その周囲には御三家や幕府首脳陣が。関ヶ原や大坂の陣で奮戦した功労者である秀忠の側近は塀の外に座らされていた。家光側近の位置は塀より内側で、自分の側近を秀忠の側近より上と明確に位置づけた。
