東京・港区にある東洋英和女学院には中学生・高校生の女子1200人が通う。学校の1日は朝の礼拝から始まる。今から140年以上前の1884(明治17)年にカナダ・メソジスト教会の宣教師によって設立された。キリスト教の教えに基づいた女子教育で英語・音楽に力を入れている。史料室には創立以来の数多くの史料が保管され、専門の研究員が分析を続けている。現在まで書き継がれてきた学級日誌は約2千冊。戦火を免れた太平洋戦争中の日誌40冊も残っていて、戦時下の学校と生徒の変化をたどれる全国的にも極めて珍しい史料。教師たちの記録や行政からの通達など、合わせて1万5千を超える貴重な史料が保管され調査が進んでいる。太平洋戦争が始まる前の学級日誌には今と同じように学校生活を謳歌している日々が綴られていた。
学校では去年から学級日誌を使った戦争と平和を考える授業を始めた。担当するのは聖書科(宗教)教諭の上野峻一さん。中学1年と3年、高校1年の授業を行う。この日は中学3年生の授業。戦争後期の学級日誌を使って当時にタイムスリップする。自分たちの日常と比べて同じことと違うことを発見していく。同じことは現在まで100年変わらないセーラー服、毎日の日誌、行動や校舎などの雰囲気。違うことは空襲警報など。同じことを見つけて80年前を身近に感じてもらい、違うことで戦争の気配を察してもらう。
太平洋戦争が始まって以降、学校では多くの変化が起きていた。日誌の表紙に書かれている学校名は「東洋永和」と「英」の字を変えていた。外国人宣教師は日本を去った。フランシス・ガートルード・ハミルトンは校歌や校章、制服を決めるなど最大の功労者だった。好調は心配せずに仕事を続けてくださいと話したが、生徒には知らされぬまま、ハミルトンはカナダへ帰国した。背景にあったのは社会の空気。カナダを含めた敵性外国人を排斥する風潮がメディアなどで強まり、ハミルトンを守ろうとしていた学校も抗えなくなった。生徒の回想録には「売国学校」と言われたなど当時の学校を取り巻く環境が記されていた。今年4月に発見された史料からは学校の追いつめられた状況が浮かび上がった。昭和18年のキリスト教団体に宛てた報告書では学則を変更する予定と記され、学校として存続する道を探っていた。昭和19年4月、学校はキリスト教を手放し、一般の高等女学校となった。礼拝や讃美歌を中止するなど創立以来の拠り所を失った。
中学3年生が戦時下の日常と現在の日常の相違点から戦争と平和について考え続けていた。上野さんが書いてもらった生徒
たちの感想を紹介した。
昭和19(1944)年7月、音楽の授業が消えた。理由は勤労動員。3月に政府は中学校などの3年生以上を1年を通じて動員すると決定。さらに東京都は女子中等学校の設備を工場化して生徒を動員すると通達を出した。音楽室だけでなく様々な場所が工場に変わった。12月には2年生も動員されることになった。勤労動員日誌も書かれるようになり、出欠席や作業の内容が記されていた。お国の為に一生懸命に立派な日本人になる様に努めると書かれた一節を紹介。史料室の研究員である松本郁子さんたちは当時の生徒たちが勤労動員に意気込んでいた理由の聞き取りを進めている。世界的なピアニストとして活動している井上二葉(95)さんは昭和19年に2年3組の生徒だった。井上さんや同じ2年3組の生徒だった平林美代子さんが当時を振り返ってくれた。
80年以上前の戦争に巻き込まれていく状況をどうすればリアルに感じてもらえるのか。自らも戦争体験がない上野さんは伝え方に悩みながら授業を考えていた。手がかりにしたのは「衆人環視」という言葉。使うのは4年生・5年生(現在の高校1年・2年)が書いた勤労動員日誌。隣人愛を掲げる学校で仲間の行動を見張る記述が目立った。高校1年生の授業の様子を紹介した。授業の数日後、4人の生徒がもっと史料を見たいと松本さんの元を訪ねた。さらに2人の生徒はキリスト教学校の集いで他校の生徒たちに日誌の授業で感じたことを伝えた。
昭和20年2月10日の学級日誌には空襲警報の記述があった。この頃の東京では頻繁に空襲警報が鳴り響くようになっていた。1・2年生約300人が靴やコートを置いておく半地下のクロークルームに身を潜めた。警報が鳴り止まぬ中、時に讃美歌を口ずさんで心の支えにしたという。4月5月になると学校周辺が空襲を受けるようになった。3月の東京大空襲を上回る焼夷弾が落とされ、5月25日から26日にかけての空襲では学校がある山の手を中心に3千人以上が亡くなった。学校は焼失を免れたが周囲は壊滅して焼け野原となった。残った校舎には焼け出された役所や軍の関係者が入って教室を使うようになった。学校工場は資材が集まらず生産が止まった。
昭和20年6月に生徒たちは召集令状を書く役割を与えられた。2年3組の担当教諭と生徒たちがその回想録を残していた。松本さんは召集令状を書いた生徒の話を記録していた。「8月15日が終戦だったので、あれは無駄であってほしかった。届かないであってほしかったと今は思います」などと語っている。上野さんは松本さんたち史料室が聞き取った卒業生の話を参考に授業に臨んだ。平和を欲するために必要なものを考えた。
7月、学校の図書室に戦時中の学級日誌が展示された。隣には戦争と平和に関する書籍を並べた。平和を欲すれば何をするべきなのか、生徒たちの意見を紹介した。
学校では去年から学級日誌を使った戦争と平和を考える授業を始めた。担当するのは聖書科(宗教)教諭の上野峻一さん。中学1年と3年、高校1年の授業を行う。この日は中学3年生の授業。戦争後期の学級日誌を使って当時にタイムスリップする。自分たちの日常と比べて同じことと違うことを発見していく。同じことは現在まで100年変わらないセーラー服、毎日の日誌、行動や校舎などの雰囲気。違うことは空襲警報など。同じことを見つけて80年前を身近に感じてもらい、違うことで戦争の気配を察してもらう。
太平洋戦争が始まって以降、学校では多くの変化が起きていた。日誌の表紙に書かれている学校名は「東洋永和」と「英」の字を変えていた。外国人宣教師は日本を去った。フランシス・ガートルード・ハミルトンは校歌や校章、制服を決めるなど最大の功労者だった。好調は心配せずに仕事を続けてくださいと話したが、生徒には知らされぬまま、ハミルトンはカナダへ帰国した。背景にあったのは社会の空気。カナダを含めた敵性外国人を排斥する風潮がメディアなどで強まり、ハミルトンを守ろうとしていた学校も抗えなくなった。生徒の回想録には「売国学校」と言われたなど当時の学校を取り巻く環境が記されていた。今年4月に発見された史料からは学校の追いつめられた状況が浮かび上がった。昭和18年のキリスト教団体に宛てた報告書では学則を変更する予定と記され、学校として存続する道を探っていた。昭和19年4月、学校はキリスト教を手放し、一般の高等女学校となった。礼拝や讃美歌を中止するなど創立以来の拠り所を失った。
中学3年生が戦時下の日常と現在の日常の相違点から戦争と平和について考え続けていた。上野さんが書いてもらった生徒
たちの感想を紹介した。
昭和19(1944)年7月、音楽の授業が消えた。理由は勤労動員。3月に政府は中学校などの3年生以上を1年を通じて動員すると決定。さらに東京都は女子中等学校の設備を工場化して生徒を動員すると通達を出した。音楽室だけでなく様々な場所が工場に変わった。12月には2年生も動員されることになった。勤労動員日誌も書かれるようになり、出欠席や作業の内容が記されていた。お国の為に一生懸命に立派な日本人になる様に努めると書かれた一節を紹介。史料室の研究員である松本郁子さんたちは当時の生徒たちが勤労動員に意気込んでいた理由の聞き取りを進めている。世界的なピアニストとして活動している井上二葉(95)さんは昭和19年に2年3組の生徒だった。井上さんや同じ2年3組の生徒だった平林美代子さんが当時を振り返ってくれた。
80年以上前の戦争に巻き込まれていく状況をどうすればリアルに感じてもらえるのか。自らも戦争体験がない上野さんは伝え方に悩みながら授業を考えていた。手がかりにしたのは「衆人環視」という言葉。使うのは4年生・5年生(現在の高校1年・2年)が書いた勤労動員日誌。隣人愛を掲げる学校で仲間の行動を見張る記述が目立った。高校1年生の授業の様子を紹介した。授業の数日後、4人の生徒がもっと史料を見たいと松本さんの元を訪ねた。さらに2人の生徒はキリスト教学校の集いで他校の生徒たちに日誌の授業で感じたことを伝えた。
昭和20年2月10日の学級日誌には空襲警報の記述があった。この頃の東京では頻繁に空襲警報が鳴り響くようになっていた。1・2年生約300人が靴やコートを置いておく半地下のクロークルームに身を潜めた。警報が鳴り止まぬ中、時に讃美歌を口ずさんで心の支えにしたという。4月5月になると学校周辺が空襲を受けるようになった。3月の東京大空襲を上回る焼夷弾が落とされ、5月25日から26日にかけての空襲では学校がある山の手を中心に3千人以上が亡くなった。学校は焼失を免れたが周囲は壊滅して焼け野原となった。残った校舎には焼け出された役所や軍の関係者が入って教室を使うようになった。学校工場は資材が集まらず生産が止まった。
昭和20年6月に生徒たちは召集令状を書く役割を与えられた。2年3組の担当教諭と生徒たちがその回想録を残していた。松本さんは召集令状を書いた生徒の話を記録していた。「8月15日が終戦だったので、あれは無駄であってほしかった。届かないであってほしかったと今は思います」などと語っている。上野さんは松本さんたち史料室が聞き取った卒業生の話を参考に授業に臨んだ。平和を欲するために必要なものを考えた。
7月、学校の図書室に戦時中の学級日誌が展示された。隣には戦争と平和に関する書籍を並べた。平和を欲すれば何をするべきなのか、生徒たちの意見を紹介した。
