中園ミホの父型のルーツを辿る。もっとも古い戸籍によれば本籍地があったのは現在の大分県宇佐市。付近には「中園」という名字の家が多数建っていた。中園氏の一番古い資料は450年前。この地域の有力な土豪・赤尾氏のもとに集まった一族が中園家だったのではないかといわれている。明治10年、祖父の甚之助が誕生。明るい性格のアイディアマンだったという甚之助は自身の名を冠した商店を開業し、にぎやかに過ごした。昭和2年に六男として弘光が生まれ、活発で明るい少年に育った。小学校では学力優秀な子どもとして過ごしたが、中学校に上がると軍事教育が盛んに。軍国少年として育った弘光は17歳でパイロットを養成する予科練を志願。航空隊に入隊した。この時期の予科練はすでに特攻隊員の養成が目的で、弘光も命を捧げる覚悟を固めていた。しかし特攻隊として飛び立つ前に敵の爆撃に遭い、両手の指を5本失い目も負傷。操縦桿を握ることはできなくなった。そのまま終戦を迎えた弘光は故郷に戻り愕然とする。それまで絶対的な正義だった軍国主義は悪とされ、すべてアメリカが正しいとされた。新しい時代についていけずすさんだ生活を送っていた弘光だったが、近隣の寺・林松寺で開催される文化活動の会に参加するようになり徐々に前向きに。失った指で字を書けるよう練習し詩などを制作。表現活動に生きることの楽しさを見出すようになった。復興が進む東京へ上京した弘光はフリーランスの記者として活躍。ある日、オーディションの会場で村上緑と出会った。やがて二人は交際を始め昭和30年に結婚した。
住所: 大分県宇佐市佐野686-2