戦時中の83年前、瀬戸内海にある海底炭鉱が水没し多くの朝鮮半島出身者を含む183人が犠牲となった。骨の一片でも見つけたい、海底に残された遺骨を家族に渡そうという市民の活動を取材した。山口・宇部市沖、海面から直立する筒状の構造物は、ピーヤと呼ばれる海底炭鉱の排気筒跡。最盛期の1940年代、宇部市で採掘された石炭の7割が海底炭鉱から掘り出された。その1つ「長生炭鉱」。いくつもの坑道が縦横に掘られ、一番大きい坑道は2km以上に渡った。落盤の危険があり、海底から浅い層を掘るのは禁じられていたが、総動員体制のもと違法な操業が続けられた。1942年2月3日、悲劇は起きた。坑道の天井が落ち水没する事故、水非常が発生。坑内に183人が取り残されうち136人が朝鮮半島出身者だった。無理やり連れてこられた人やだまされてきた人もいたという。戦争の真っただ中、彼らの救出は行われず、坑口は事故直後に塞がれ、その場所さえ忘れられた。
犠牲者の遺骨を遺族のもとに返そうと活動を続ける人がいる。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」・井上洋子共同代表。井上共同代表は「戦時中のエネルギー政策で、日本のために無理をして人災で殺された人たち。人道的に考えたら、必ず遺骨は返さなきゃいけない。そこに誠意のかけらも持っていない日本政府。市民の力で誠意を尽くすということ」と語った。井上共同代表が衝撃を受けたのは大学生のときに読んだ一冊の本。長野・天龍村で生まれ育った井上共同代表は、戦時下ふるさとの平岡ダムで朝鮮の人々が強制労働させられていたことを知った。結婚を機に山口県に引っ越した後、長生炭鉱の事故を知り、2つの問題につながりを感じた。そのとき出会ったのが、高校教諭で事故の研究をしていた長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・山口武信初代代表。刻む会がまず目指したのが炭鉱近くに追悼碑を建立すること。戦時中にまとめられた犠牲者の名簿(殉職産業人名簿)。朝鮮半島出身者のほとんどが日本名で記録されていた。刻む会は、犠牲者118人の住所に手紙を出した。追悼碑に本名を刻みたいという思いから。17通の返信があった。追悼碑が完成したのは2013年。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の結成から22年の月日がたっていた。完成後の集会で韓国の遺族たちが、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・山口武信初代代表に「遺骨を故郷に弔ってあげたい」と訴えた。刻む会は遺骨発掘を決めた。戦時中、日本で亡くなった朝鮮半島出身労働者の遺骨を巡っては、2004年の日韓首脳会談を機に日本政府が返還に協力することが確認されている。山口初代代表は、志半ばで10年前に亡くなった。
意思を引き継いだ長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は、日本政府に対して調査を求めたが、政府は「遺骨が坑道のどこにあるか分からず、調査は現実的に困難だ」と突っぱねた。刻む会は坑口の場所を調査で突き止めていた。去年7月、民間の手で坑口を掘り起こすことを決め寄付を募った。3か月で市民から1200万円以上が集まった。だが問題が浮上。坑口のある土地は戦後の混乱で所有者がはっきりしない。井上共同代表は、本来、山口・宇部市が登記すべき土地であったとして市に工事の許可を求めたのだが、宇部市・篠崎圭二市長は「使用許可を出せる状況にない」と回答し、問題の解決に踏み出そうとはしなかった。愛知・刈谷市に日本人犠牲者の遺族が住んでいる。83歳の男性は、事故発生の4日後に産まれた。父親が長生炭鉱で亡くなったことを知ったのは3年前。新聞で知ったという。男性は「早く出してお墓に葬ってやりたい」と語った。去年9月、山口・宇部市が積極的に中止を求めないことを根拠に、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会は坑口の掘り起こし工事に踏み切った。まずは建設機材の搬入路を作る。事故から80年以上、生い茂る草木を切り落とし、坑口の土地を開いていく。あるとみられた場所を掘り進めたが坑口は見当たらない。証言をもとに、更に範囲を広げる。掘削開始から2日目、坑口が姿を現した。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は「坑口にたどり着くことができ、報告ができるのが本当によかった」と語った。
1か月後、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会は坑口の前に遺族を招いた。坑口の前には男性の父親の遺影が置かれていた。日本人犠牲者の遺族は「きょうしっかりわかった。冷たい水の中にまだいるんだと思う。早く出して再会したい」と語った。坑口に向かって「ふるさとに帰りましょう」と呼びかける韓国の遺族たち。坑口の掘り出しで、遺骨収集は一気に現実味を帯びた。一方で、濁った水の中で、どう調査を行うのか、課題も残されていた。そんな折、強力な助っとが名乗りを上げた。水中探検家・伊左治佳孝さん。洞窟など閉鎖環境での潜水のエキスパート。伊佐治さんは「単純に親が炭鉱の中で遺骨が残っているってなったら、誰が聞いても悲しい。悲しいことだから協力しましょうねって。それだけでいいと思う」と語った。筒状の構造物ピーヤから坑道に入れないかを探る。そこにはパイプなど金属が折り重なっていた。刻む会と伊左治さんは最終的に坑口から遺骨の捜索を行う方針を固めた。国に調査への協力を促すため、伊佐治さんが議員に向け、調査の安全性を説明する機会を設けたが、国が方針を覆すことはなかった。
先週金曜日、韓国の遺族が山口宇部空港に降り立った。坑口から行われる潜水調査に立ち会うため。炭鉱跡に近い西光寺には、犠牲者の位はいが安置されている。韓国人遺族の1人の男性は、長生炭鉱で働いていた祖父が朝鮮にいる母親に宛てた手紙の内容が残されていた。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は「遺骨があるよということの証明をしたい」と語った。3日間にわたる本格的な調査が始まった。遺族や刻む会の思いを背に水中探検家・伊左治佳孝さんがかつての海底炭鉱へと入っていく。目指すのは、遺骨があると考えられる坑道の一番深い部分。坑口から350mほどの地点。潜水は1時間半に及んだ。水が濁って視界がきかないため調査はほとんど手探りで行われる。坑口から250mほどの地点で散乱する木材などに行く手を阻まれた。内部の状況は想像以上に悪い。調査2日目、冷たい雨に濡れながら400人以上が作業を見守る。木材の隙間をすり抜けて、前の日よりも15m先に進んだ。しかし遺骨は見つからない。
犠牲者の遺骨を遺族のもとに返そうと活動を続ける人がいる。市民団体「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」・井上洋子共同代表。井上共同代表は「戦時中のエネルギー政策で、日本のために無理をして人災で殺された人たち。人道的に考えたら、必ず遺骨は返さなきゃいけない。そこに誠意のかけらも持っていない日本政府。市民の力で誠意を尽くすということ」と語った。井上共同代表が衝撃を受けたのは大学生のときに読んだ一冊の本。長野・天龍村で生まれ育った井上共同代表は、戦時下ふるさとの平岡ダムで朝鮮の人々が強制労働させられていたことを知った。結婚を機に山口県に引っ越した後、長生炭鉱の事故を知り、2つの問題につながりを感じた。そのとき出会ったのが、高校教諭で事故の研究をしていた長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・山口武信初代代表。刻む会がまず目指したのが炭鉱近くに追悼碑を建立すること。戦時中にまとめられた犠牲者の名簿(殉職産業人名簿)。朝鮮半島出身者のほとんどが日本名で記録されていた。刻む会は、犠牲者118人の住所に手紙を出した。追悼碑に本名を刻みたいという思いから。17通の返信があった。追悼碑が完成したのは2013年。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会の結成から22年の月日がたっていた。完成後の集会で韓国の遺族たちが、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・山口武信初代代表に「遺骨を故郷に弔ってあげたい」と訴えた。刻む会は遺骨発掘を決めた。戦時中、日本で亡くなった朝鮮半島出身労働者の遺骨を巡っては、2004年の日韓首脳会談を機に日本政府が返還に協力することが確認されている。山口初代代表は、志半ばで10年前に亡くなった。
意思を引き継いだ長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は、日本政府に対して調査を求めたが、政府は「遺骨が坑道のどこにあるか分からず、調査は現実的に困難だ」と突っぱねた。刻む会は坑口の場所を調査で突き止めていた。去年7月、民間の手で坑口を掘り起こすことを決め寄付を募った。3か月で市民から1200万円以上が集まった。だが問題が浮上。坑口のある土地は戦後の混乱で所有者がはっきりしない。井上共同代表は、本来、山口・宇部市が登記すべき土地であったとして市に工事の許可を求めたのだが、宇部市・篠崎圭二市長は「使用許可を出せる状況にない」と回答し、問題の解決に踏み出そうとはしなかった。愛知・刈谷市に日本人犠牲者の遺族が住んでいる。83歳の男性は、事故発生の4日後に産まれた。父親が長生炭鉱で亡くなったことを知ったのは3年前。新聞で知ったという。男性は「早く出してお墓に葬ってやりたい」と語った。去年9月、山口・宇部市が積極的に中止を求めないことを根拠に、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会は坑口の掘り起こし工事に踏み切った。まずは建設機材の搬入路を作る。事故から80年以上、生い茂る草木を切り落とし、坑口の土地を開いていく。あるとみられた場所を掘り進めたが坑口は見当たらない。証言をもとに、更に範囲を広げる。掘削開始から2日目、坑口が姿を現した。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は「坑口にたどり着くことができ、報告ができるのが本当によかった」と語った。
1か月後、長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会は坑口の前に遺族を招いた。坑口の前には男性の父親の遺影が置かれていた。日本人犠牲者の遺族は「きょうしっかりわかった。冷たい水の中にまだいるんだと思う。早く出して再会したい」と語った。坑口に向かって「ふるさとに帰りましょう」と呼びかける韓国の遺族たち。坑口の掘り出しで、遺骨収集は一気に現実味を帯びた。一方で、濁った水の中で、どう調査を行うのか、課題も残されていた。そんな折、強力な助っとが名乗りを上げた。水中探検家・伊左治佳孝さん。洞窟など閉鎖環境での潜水のエキスパート。伊佐治さんは「単純に親が炭鉱の中で遺骨が残っているってなったら、誰が聞いても悲しい。悲しいことだから協力しましょうねって。それだけでいいと思う」と語った。筒状の構造物ピーヤから坑道に入れないかを探る。そこにはパイプなど金属が折り重なっていた。刻む会と伊左治さんは最終的に坑口から遺骨の捜索を行う方針を固めた。国に調査への協力を促すため、伊佐治さんが議員に向け、調査の安全性を説明する機会を設けたが、国が方針を覆すことはなかった。
先週金曜日、韓国の遺族が山口宇部空港に降り立った。坑口から行われる潜水調査に立ち会うため。炭鉱跡に近い西光寺には、犠牲者の位はいが安置されている。韓国人遺族の1人の男性は、長生炭鉱で働いていた祖父が朝鮮にいる母親に宛てた手紙の内容が残されていた。長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会・井上洋子共同代表は「遺骨があるよということの証明をしたい」と語った。3日間にわたる本格的な調査が始まった。遺族や刻む会の思いを背に水中探検家・伊左治佳孝さんがかつての海底炭鉱へと入っていく。目指すのは、遺骨があると考えられる坑道の一番深い部分。坑口から350mほどの地点。潜水は1時間半に及んだ。水が濁って視界がきかないため調査はほとんど手探りで行われる。坑口から250mほどの地点で散乱する木材などに行く手を阻まれた。内部の状況は想像以上に悪い。調査2日目、冷たい雨に濡れながら400人以上が作業を見守る。木材の隙間をすり抜けて、前の日よりも15m先に進んだ。しかし遺骨は見つからない。