日本赤十字社が全国から看護婦を召集するために配った紙。19歳の時にこの赤紙を受け取り、従軍看護婦として戦地に赴いた森原敏子さん(102)。従軍看護婦とは、陸海軍の監督下で軍医や衛生兵と共に日本兵の看護をしたナースの通称。このうち日赤の養成所を卒業した人は、救護看護婦とよばれ、国内外の病院に約3万人が派遣された。敏子さんも看護婦を目指した1人。この頃看護婦は女性が戦争に行くために手段で、憧れの道ともなっていた。軍の規律などの知識を3年で身につけて、1943年中国・青島の陸軍病院に赴任した。敏子さんがいた病院は、野戦病院などで治療しきれない重症患者が運ばれてくるところだった。戦況の悪化とともに、その数は増え続けたという。内科は三交代制で24時間患者を受け入れていた。もっとも多かったのは、結核や赤痢などの感染症患者。患者の隔離や亡くなった人の埋葬作業に奔走したという。一方、新人看護婦には共有されない情報があった。退院した兵士の行く先だった。当時回復した兵士は再び前線に戻すことが原則だった。兵士の移送先が共有されない理由には、新人看護婦の精神的な負担を減らす目的もあったのではと川口教授は指摘する。救ったはずの命が再び戦いに駆り出されていく、敏子さんは行く先を考えないようにしながら業務にあたっていたという。日中戦争から終戦までの間に、戦時救護によって殉職した日赤の救護看護婦は1120人にのぼる。
