水木しげるは少年時代に野山を駆け回り喧嘩に明け暮れる日々だった。とりわけ画才に長けていて、独学で始めた絵が評判になり高等小学校1年のときには個展が開かれ天才画家少年現ると話題に。画家を目指し15歳で大阪の印刷会社に就職し夜間中学に通いながら画家を目指した。様々な仕事に就くがいずれも短期間で解雇された。それでも画家への思いは捨てきれなかったというが21歳のときに召集令状が届いた。水木は南方の激戦区のニューブリテン島におくられた。戦争で目にしたものを描き凄まじい敵の集中砲火のなかで水木は左腕を失った。野戦病院に負傷兵として送られたがその心身を癒やしたのは現地人集落を頻繁に訪れてトライ族との親交。大地と精霊と生きる彼らの生活をすっかり気に入った水木は、ここで除隊し一緒に暮らしたいと思うように。それでも1946年に帰国。