こだわりぬいたフライパンづくりにチャレンジし大ヒットさせた石川。そのチャレンジ精神の原点は高校時代にあった。石川は、甲子園を目指す高校球児だった。地元碧南高校で野球部の所属。ポジションはピッチャー。県大会では後のメジャーリーガーのイチローと対戦したことも。大学で教職課程をとり、母校の教師になり野球部の監督として甲子園を目指した。県立高校で設備が十分でなかったために石川鋳造の倉庫の一部を室内練習場に改装。選手たちを鍛えるためにバッティングマシーンを設置。愛知県の県大会ベスト4に導いた。30歳になると石川鋳造に入社し32歳で父の跡継ぎで社長に就任。その頃、石川が気になっていたのは職人の働く態度。彼らは当たり前のように咥えタバコで作業をしていたがそれを見かねた石川は、タバコを吸うことを注意すると職人は口出しをされたことに激怒。さらに大きな試練にはリーマンショック。売上の柱だった金属を溶かすのに使用するルツボという製品の受注が落ち込んで赤字に転落。会社が自立できる商品はなにか?と石川が目をつけたのは、フライパン。しかし、フライパン作りの経験はなく、しかもライバルは五萬といる。完成まで試作品は1000枚以上。開発費に1000万円をかけた。膨れ上がる費用に、社内では反対の声があり父も反対していたという。追い込まれた石川だが意外な場所でヒントを掴む。