関ヶ原の戦いでは島津軍に約3万の徳川軍本体が迫った。東軍の兵士たちは恩賞を目当てに色めき立つなか、島津軍は敵中突破に活路を見出した。追手が接近すると、逃走する島津軍の一部が離別し、足止め役を務める。全滅したら、逐次、足止め役を投入。道中、武装した僧侶、農民から襲撃も受けたという。それでも島津は大阪にいた妻を連れ出すことに成功し、4艘の船で薩摩を目指した。2艘は黒田官兵衛率いる水軍に立ち向かい、激闘の末に沈没した。10月3日、島津義弘は霧島に着到した。戦場には約1500人の家臣がいたが、戻ったのは39人だったという。