- 出演者
- 佐藤二朗 片山千恵子 河合敦
オープニング映像。
関ヶ原の戦いの敗将はどのような逃走ルートをとったのか調査する。佐藤二朗は敗者側の史料というのは散逸しているのではないかと尋ねると、今回は残されている史料の他、民間伝承にもスポットを当てたという。
関ヶ原の戦いで敗色濃厚となると、石田三成は故郷の近江を目指した。だが、家族がいる居城は東軍によって陥落。石田は盟友である大谷吉継が治めていた越前へ向かうことにし、数少ない家臣とも離別した。庄屋にかくまわれた後、山奥の洞穴に身を隠した。集落はかつて飢饉に見舞われた際、石田に手を差し伸べて貰った過去があり、恩義に応えるべく、食事の世話をしていたという。石田にとっては母の故郷ということで地理に精通し、洞穴の存在も知っていたと考えられる。だが、関ヶ原の戦いから6日後、石田は捕縛され、六条河原で斬首された。
近田アナは石田三成の逃走ルートを辿り、洞穴にも足を踏み入れた。地元の方々の協力も得たが、クマが出るとも言われていたという。石田三成は11月6日に亡くなったが、命月には長浜市でお祭りが催されている。
岐阜・揖斐川町には小西行長を祀った神社がある。小西行長はキリシタン大名だが、平家の落武者伝説が残る集落の村人たちは匿ったという。その後、東軍の追跡が迫り、敗将を匿った村は焼き払われるという通達もあったことから、村人たちは小西を捕縛。連行の際、小西は「この村を焼き払う」と恨み辛みを吐いたという。村では災禍に見舞われると小西の祟りと恐れ慄き、神社を建立したという。
佐藤二朗は猛将と謳われた小西行長を捕縛した農民たちに驚いていた。河合敦氏は「農民といえども自衛のために武装する必要があり、戦場にも駆り出されていた」などと話す。下剋上の世の中において、農民でも武士には容赦がなかったという。
関ヶ原の戦いでは島津軍に約3万の徳川軍本体が迫った。東軍の兵士たちは恩賞を目当てに色めき立つなか、島津軍は敵中突破に活路を見出した。追手が接近すると、逃走する島津軍の一部が離別し、足止め役を務める。全滅したら、逐次、足止め役を投入。道中、武装した僧侶、農民から襲撃も受けたという。それでも島津は大阪にいた妻を連れ出すことに成功し、4艘の船で薩摩を目指した。2艘は黒田官兵衛率いる水軍に立ち向かい、激闘の末に沈没した。10月3日、島津義弘は霧島に着到した。戦場には約1500人の家臣がいたが、戻ったのは39人だったという。
佐藤二朗は関ヶ原の戦いで逃走に成功した島津義弘を徳川家康が放任していたとは考えにくいと尋ねると、河合氏は「のらりくらりとかわし、出頭要請に応じなかった」と語った。東軍の武将たちの仲介もあってか、家康は「頭を下げれば許す、領地も一切減らさない」などと譲歩した。鹿児島では島津勢の足跡をたどるイベントが催されている他、西郷隆盛と並んで島津義弘は英雄視されているという。河合氏は「戦国大名にとって負けたら逃げるというのは恥ではなく、逃げた後に再起を図る方が重要」と語った。佐藤は60を過ぎても戦場に立ち、負けても故郷へ戻った島津義弘に刺激を受けたという。
「歴史探偵」の次回予告。