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「旧広島陸軍被服支廠」 のテレビ露出情報

2024年11月16日、切明千枝子さんは95歳の誕生日を祝ってもらっていた。買い物や食事の準備も1人で行う。食後には甲状腺と高血圧の薬を服用するという。懇談会の出席依頼のファクスや電話が来た。切明さんのスケジュールはたくさんの予定で埋まっている。元日本被団協代表理事の清水さんは、切明さんは被爆だけでなく広島が軍都であったことも証言する稀有な存在だと語る。
切明さんは1929年生まれで4人姉妹の長女。父は軍用船を造る工場長。母が勤める軍需工場の中の幼稚園で育った。旧広島陸軍被服支廠には学徒動員で来たことがあるという。広島第二高等女学校4年生、15歳のとき。1945年8月6日は暑い日で、橋の袂にある建物の陰に入った瞬間だったという。切明さんは一命を取りとめ、母校で下級生の手てにあたった。切明さんは「被爆してから80年もたってしまったのに、私はそこで時間が止まっちゃってるような気がする。95年の人生がもしかしたら夢幻だったのかなと思ってみたり」と話した。
切明さんは1949年、20歳のときに結婚。身近にたくさん原爆小頭症の赤ちゃんが産まれたりしているのを見たことから、子どもを産まない約束で結婚したという。しかし、近所の内科の先生に「それは心に障害者差別の根性がある」としかられ、間違っていたと思ったという。1956年に長女を出産。「子や孫ができ、この子たちを同じような目に合わせてはならんぞという思いが沸いてくる。思い出して話をすることはとてもできないので逃げていたが、やっと被爆証言ができるようになった」と切明さんは話した。1961年、教育専門の出版社を夫婦で立ち上げた。
切明さんに腫瘍が見つかった。手術をしてとった方が長生きできるが、寝たきりになるリスクもあるという。切明さんは「手術はやめた。動ける間は動いて、しゃべれる間はしゃべって。被爆証言は続けていきたいし頑張れるだけは頑張ろうと」と話した。切明さんがつけている紙粘土のネックレスは広島の郊外にある児童館でもらったものだという。平和を守る大切さを再確認する意味で身につけていて「私の宝物」と切明さんは話した。
テレビでは日米安全保障条約についてのニュースが流れている。切明さんは「また戦前の不穏な空気というか気配を感じる。被爆者が声を上げて戦争をしちゃいけないと言い続けているが、なかなかそうはならないので虚しいものがある」と話した。山口晶子さんは切明さんの被爆体験を伝承している。切明さんの証言を聞いたときに、自分の娘と重なり「こんな思いをさせてはいけない」と証言を継承しようと思ったという。
切明さんの元に孫やひ孫が集まった。切明さんは結婚するときに子を産まない約束をしていたこと、医者にしかられたことを明かした。切明さんは「5人の孫が産まれて、それぞれにまたひ孫が産まれて、私は幸せ者でございます」と話した。2025年8月6日、切明さんは黙祷をして手を合わせた。切明さんは「原爆で死んでいった友達や下級生や先生たちの体は消えてしまいましたけど、思いとかそんなものを受け継いで、また次へ受け継いでもらう。次へ次へと。それが続くかぎりは心の中に生きてるんだと思う」と話した。

他にもこんな番組で紹介されています…

2025年6月23日放送 19:00 - 21:54 テレビ朝日
帰れマンデー見っけ隊!!広島 世界遺産SP
サンド、Ooochie Koochieが地元広島の名店を探す。平和祈念公園にやってきた。「原爆の子の像」は原爆で亡くなった全ての子どもたちの為に世界各国の人々の寄付によって作られ、現在も国内外から年間約1千万羽の折り鶴が捧げられている。折り鶴は広島の子どもたちの卒業証書などに使用されている。4人は冥福を祈った。

2024年12月12日放送 10:25 - 13:00 テレビ朝日
大下容子ワイド!スクランブル松岡修造 全力応援NEWS
思い出の町並みが消える?岐路に立つ文化財。文化財が消える。文化財を残す。文化財を思う。文化財とは、我が国の長い歴史の中で生まれはぐくまれ、今日まで守り伝えられてきた貴重な国民的財産。有形文化財、無形文化財、民俗文化財などがある。1950年には文化財保護法が聖帝絵され、修理、防災、伝承者養成などの費用の一部に補助金が支給されるなど、国民的な財産を守ろうとしてき[…続きを読む]

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