吉岡攻が佐渡山豊のドゥチュイムニイを聞いたのは沖縄が日本に復帰した年。米軍占領下の中で祖国復帰を目指してきた沖縄は、本土との一体化を急ぐあまり生活や文化だけでなく、日本語の使用も強く奨励されるなかで、沖縄の島言葉を多用したドゥチュイムニイは衝撃だったという。思ったことを伝えるには島言葉しかないと、その言葉を使って戦争や犯罪、騒音という基地との共存を余儀なくされた苦情や希望を歌った。ドゥチュイムニイは71番まで膨れ上がった。台湾有事を前に勇ましい声が聞こえて来るようになった沖縄。再び戦場になるのか?と南の島の人たちの思いを言葉にしようと佐渡山さんは旅に出た。沖縄の悲しい歴史と基地の島と沖縄の悲しい現実を歌ったドゥチュイムニイは、フォークソングブームにわく本土の若者の心を捉えていた。会場はどこも満員でレコードも売り切れるなど大成功。しかしデビューから5年でフォークソングのブームは終わった。歌をやめた佐渡山さんの次のしごと場は嘉手納基地。復帰したとはいえ、基地は依然沖縄最大の産業だった。そして17年の月日が経過した1995年のある日、一人の女性が訪ねてきた。その時沖縄では、小学生の少女が複数の米兵に暴行されるという衝撃的な事件が発生。太田県知事の言葉に刺激され、佐渡山さんが歌うことを決意。中国脅威論の最前線と位置づけられた沖縄は、基地のなかった島々にもきな臭さが漂うように。佐渡山さんは旅に出た。
住所: 東京都新宿区戸山1-24-1